青龍山 金剛寺 普賢院(岡山市吉備津1494)

本尊 普賢延命菩薩

 古来より”律院”として吉備一帯を教化

 古代、大和や九州とも交流を持ち、それらに劣らぬ一大文化圏を築き上げた吉備路。その伝統と伝説が息づく東の玄関口・吉備津に、その歴史とロマンを秘めた古刹・青龍山金剛寺普賢院がある。吉備津神社の西側、御手洗池の側に御所塀に囲まれ、仁王門、本堂、客殿、聖天堂など伽藍が端正な佇まいを見せている。
 同寺は寺伝によると、行基によって草庵が結ばれたのが草創の始まりとされているが、年代は不詳である。場所も現在地でなく西へ約300メートル行ったところだとされており、吉備津神社の別当職を担い、「金剛寺」と称していたという。

 寺歴が明らかになるのは、第六十二世(中興六世)道光和尚が残している『青龍山普賢院記録』によると、中興第一世蓮體和尚(1663〜1727)以降である。河内・延命寺浄厳和尚の弟子・蓮體がi何時入寺したかは詳らかではないが、記録によると、寺内に栢之坊、東林院、道勝寺、持泉寺、十輪院の五カ寺の塔頭寺院をはじめ、近郷に十五カ寺の末寺を有していた記録が残されている。
 現在地に移転されたのは寛永年間(1624〜43)で、この時期に客殿や本堂が建立されている。同院を囲っている塀は「御所塀(筋塀)」で、格式のある寺院に使用されており、往昔の風格を偲ばせてくれる。
 また、同寺の寺歴の中で特筆されるのは事相を重んじた、いわゆる”律院”として吉備津一帯に信仰心を育んでいたことである。宝暦二年(1752)の仁王門移建時のものとされる篇額は、東寺観智院第十三世賢賀僧正によるもので、賢賀僧正は事相の大家として有名な僧である。このことからも、同院が厳格な事相を重んじていたことが窺える。さらに、寺内には涅槃常楽会の法則や大曼荼羅供、結縁灌頂三味那戒、吉備津会陽(裸まつり)など厳修した記録も残されている。

 ところで、同院がある吉備津は旧山陽道の宿場町、門前町として発展した町である。従って文人墨客の往来も多く、同院に足跡を残している。山門横に建つ頼山陽筆になる戒壇石や「護花鈴図・並笛図」(六曲一双・作者不詳)、森徹山筆「秋草鹿図」(二曲屏風一双)、森一鳳筆「鶴図」(襖八面)など優れた作品を残し、東西文化交流の歴史を秘めている寺院でもある。

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より
 

年中行事

元旦 本尊密供 七月三十一日 天神さま夏まつり
一月十六日 初聖天大祭 八月十五日 盂蘭盆精霊まつり
一月二十一日 正御影供 八月二十三日 地蔵盆施餓鬼大法会
二月十一日 柴燈大護摩供 九月十六日 聖天さま秋の大般若会式
三月二十日 春彼岸会 九月二十三日 秋彼岸会
四月八日 花まつり 毎月十四日 本尊供
五月十六日 聖天さま春の大般若会式 毎月十六日 歓喜天祈祷
六月十五日 青葉まつり 毎月二十一日 御宝号念誦の集い