銘金山観音寺遍照院 通称 金山寺(岡山市金山481)

仁王門

 金山寺は、金山の中腹にある県内一の名刹である。天平勝宝元年(749)の昔、摩訶芳賀(旧御津郡馬屋下生まれ)が開山したという。この摩訶芳賀は、天平勝宝二年、ときの孝謙天皇の重病に際して、加持祈とうを行い、天皇は病気平癒され、その功により報恩大師の号をもらった。大師は、その後備前国内に四十八寺の根本道場として栄えたのがこの金山寺であった。
 この寺は、当時現在の妙見宮の峰にあたが、のち天養元年(1144)にいまの場所に移されたといわれる。寺運が栄えはじめたのは、おそらくこの平安末期のころからと思われる。そのころ、のちわが国禅宗の開祖となった葉上房栄西も天台僧として、一時この寺に在住修業したことがある。栄西は、寺中に遍照院を興し、灌頂堂、護摩堂、宝蔵などを新しく造り、寺の興隆に大いにつとめた。

護摩堂

 ついで、鎌倉時代には将軍家の祈願所となり、数多くの人々の崇敬を集めて、ますます繁栄してきた。しかし、この古寺にも黒い影がさしてくる。室町時代の末、文亀元年(1501)の戦雲たなびく当時、備前守護代金川城主松田左近将監元賢が、狂信的日蓮宗徒であったので、当寺に対して天台宗から日蓮宗へ改宗するよう要求したが、応じなかった。そこで、松田元賢はいかり、金山の伽藍に火をかけて焼いた。こうして、時の権力にさからった寺は、他寺にもみられるように、以来七十年衰微の一途をたどっていった。
 しかし、永禄四年(1561)、傑僧豪円が伯耆国大山寺から、この寺にやってきた。豪円は、寺の復興に力を尽くしたため、ようやく昔日の繁栄をとりもどしたと伝えられ、豪円は”中興の英僧”とよばれている。そのころ備前を支配していた松田氏は、新興の宇喜多直家に倒されていた。豪円は、この宇喜多直家にはたらきかけ、直家は豪円の要請で、大地主となって天正三年(1575)に、金山寺の復興につとめた。さらに、直家は備前国内社寺領五千九百石を寄進するなど、陰に陽に同寺を保護した。

本堂

 江戸時代に入り、池田光政は金山寺の国中寺社総管的位置を廃し、一宗末寺支配に制限した。また、寺院整理を断行したので、金山寺はこれに抗議し、東叡山(寛永寺)を通して幕府に直訴した。その結果、備前の天台宗廃寺は当寺へ渡された。当寺の伝統と各4基をよく示している。

本堂

 古寺であるだけに、多くの文化財が残っている。建物では、本堂(国指定重文)と護摩堂(県指定重文)とかが知られている。
 両堂とも、宇喜多直家が建立したものであるが、本堂は、一重で入母屋造、本瓦ぶきで、特に幕股の彫刻や木鼻の蝸(うずまき)などに、室町建築の特色が色濃く残っている。護摩堂は、一重で入母屋造の本瓦ぶきという本堂を一まわり小さくしたような形である。柱は円柱で、斗拱(ときょう)は舟肘木(ふなひじき)を用いているが、いたって質素なものである。しかし、現存の堂は、創建以来のたびたびの修理でほとんど昔の姿をとどめていない。

三重塔

 また、仁王門(市指定重文)は、正保二年(1645)岡山藩主池田光政の寄附により再建された。三重塔(市指定重文)は天明八年(1788)賢敬法師により再建。その他、灌室、庫裡、客殿、書院や開山堂、豪円堂など総数二十余棟の堂宇が一群をなし、壮観である。
 さらに、金山寺文書(国指定重文)は、寺領に関する寺解、国宣鎌倉御教書、金山寺観音寺縁起など五十二通の貴重な資料である。その他の古文書もきわめて多い。
 阿弥陀如来坐像(県指定重文)は、像高0.85メートル、寄木造、藤原末か鎌倉初期の作。俗に頬焼(ほほやけ)阿弥陀と呼ばれている。

市川俊介著『岡山の神社仏閣』より