松寿寺(岡山市浜野1丁目7-25)

 京橋から三キロ、旭川を右岸沿いに南下すると、日蓮宗の名刹松寿寺にたどりつく。この寺は、南北朝末期、多田頼貞という南朝方の武将が、この城(現在の松寿寺境内)で敗れ自刃したので、父の霊をとむらうため、頼貞の子頼仲が建立した。頼貞は大覚大僧正の教えを受けて日蓮宗に帰依し、この寺を中心に”備前法華”の日蓮宗が普及することになる。
 境内には、「多田頼貞廟堂」と「鬼子母神の槐(えんじゅ)」がある。この寺の年中行事に、”入道さま法要”があり、八月十二日に行われる。いつもひっそりとしている境内も、この日は朝から参詣の人々でにぎわう。境内南すみの「多田頼貞廟堂」の前で、おごそかな読経が流れ、線香がたちこめる。頼貞は後醍醐天皇につかえた武将で、足利尊氏方の備前守護職赤松則祐と浜野で戦い、敗れてこの城内で七人の家臣とともに自刃した。問題の頼貞廟堂は、のち備前藩主池田継政が頼貞の忠誠に感銘し建立した。真四角な建物のなかには、五輪塔(頼貞墓)、その下に木墓の七基(自害した家臣の墓)が悲運な南朝の歴史をものがたっている。
 また、「鬼子母神の槐は樹齢約五百年、根元周囲4.6メートル、高さ8メートルの大樹で、岡山市指定天然記念物になっている。寺伝によると、寛保三年(1743)八月八日夜、時の住職十五世日全は”鬼子母神”の夢をみた。それから八カ月後、いつものように祈願していたところ、本堂前の槐の木から神像が現れ、いま”おかげ”の空洞はその像の跡である。この神像は衣をまとい赤ちゃんを抱いて、十羅刹女に守られ、訪れる人にご利益(子ども)を授けるという。

市川俊介著『岡山の神社仏閣』より

本堂 鬼子母神の槐 多田頼貞廟堂