感善山 妙法寺(岡山市浜野4丁目9-39)

本尊 題目・宝塔・釈迦・多宝仏・上行等四菩薩

縁起

浜野の旧備前藩船入の跡にある日蓮宗誕生寺派の寺院で山号を感善山という、本尊は題目・宝塔・釈迦・多宝仏・上行等四菩薩。寛永年中の開基で、はじめ安宅山教善寺と称したが寛文六年に現在の通り改称したと云われる。
(寺記略に)当寺は池田忠継の召船なりし安宅丸の舟入せし旧跡に建てしものにして、其の創立は寛文十一年なり、其の始めは下総国平賀本土寺の末寺にして上道郡平井村妙樂寺の分寺なりしが如し。其後八十年日晴の頃堂塔漸く頽廃す、日晴は高徳の僧にして本堂庫裡を修理葺替へ大に面目を改む、中興開基の祖と命ぜらる、明治六年六月二十二日全部焼失、どう四十五年本堂を改築、五月一日上棟式を行う。
旧版岡山市史第五巻にのせた同寺の創立年代は寛永年中と寛文十一年(寺記)との二様になり、問題をのこしているが、この地に備前藩の船入のあったのは寛永初年までで、寛永九年光政が鳥取から岡山に入城してのち、しばらくは網浜に船入を新設して之を使用した。しかし忠継が父輝政の没後かたみわけにもらった紀伊国丸、吉田丸など安宅型の大船は幕府の大型船禁止によって、浜野の船入に繋留したままで置かれ、のち解体されて多くの船材は朽ちるに委せたのであるから、ここの船入が一部藪土手をのこして、その一郭(600坪)を寺屋敷としたのは寛永から寛文の間で、寺地のほかは田畑に変わった。
寛永年中の創立とはこの地方の開発がすすみ平井村妙樂寺が建てられられたときで、その後寛文十一年に独立寺院となったものと考えられる。
本堂は明治四十五年の再建、入母屋造本桟瓦葺妻入の建物で南面しており、庫裡・客殿をかねた入母屋造本瓦葺の建物と帝釈堂、妙見堂、山門、通用門がある、多くは明治六年の火災以後の建築であるが、萱葺の妙見堂は本尊と共に平福から移したもので江戸時代の建物である。