本山寺(久米郡美咲町定宗403)

 柵原町大戸の吉井川堤に、「本山寺道」と刻まれている石地蔵がある。

山門

 石地蔵の三差路から、山あいをゆるやかな登り道を五キロほど進み、左側の小さな道標「本山寺 拾五丁」の指示通り左手に道をとり、山道ををゆくと、数戸の民家と舗装され曲がりくねった道路が見える。その道路を左に折れ山の斜面を曲がった所に仁王門が見える。
 門の前の石の広い階段を登り切り、門をくぐると、うっそうとした樹木に囲まれた静かな山寺である。金毘羅山(標高400メートル)の頂上から少し北へ下ったところに建つ美作第一の天台宗の大伽藍岩間山本山寺である。

本堂

 当寺は大宝元年(701)、役行者(えんのぎょうじゃ)の修業したこの山頂に、佐伯有義が新山寺(しんざんじ)を建立したのに始まる。いまそこに役小角(えんのおずぬ)をまつる常行堂がある。それから50年のち、唐僧鑑真(がんじん)がきて寺名を本山寺と改め十一面観音を安置し、大伽藍を建てたという。のち平安末近くになって、兵火のため荒廃した。
 そのころ、久米師真(もろざね)と弓削師古(ゆげもろふる)は力をあわせて寺の復興に努め、新しい十一面観音像をつくり天永元年(1110)山頂から現在の地に寺を移し、本堂・講堂・三重塔・多宝塔・鐘楼・仁王門などを建てた。当時の新旧ニ体の本尊々像は、いまも本堂の厨子(ずし)のなかに祀られている。これから寺運は大いに栄えて百二十坊といわれるほどになった。
 長承元年(1132)、稲岡荘の漆間時国夫妻がこの寺に参籠し、嗣子を授け給えと祈り、願いがかなって生まれたのが勢至丸、のちの法然となったのは、有名な伝説である。

三重塔

 名刹だけに文化財も多い。本堂(国指定重文)は南北朝時代の観応元年(1350)の建立で、地方では珍しい大堂であり、和様唐様折衷様式(わようからようせっちゅうようしき)。このほか、県指定重文の常行堂は永正元年(1519)の建立。同重文の仁王門は、永禄五年(1504)尼子晴久の軍の来襲により破壊されたがすぐに修復された。

霊廟

 江戸時代に入ると、津山藩主森氏、松平氏ともに当寺を保護した。承応元年(1652)、森家により三重塔(県指定重文)が再建され、徳川将軍の霊碑をまつる霊廟(県指定重文)も造営。長屋(県指定重文)は弘化二年(1845)にさい件された。
 石造美術では、建武二年(1335)銘の宝篋印塔(ほうきょういんとう)(国指定重文)と応永六年(1399)の宝篋印塔(県指定重文)が有名。また珍しい康永三年(1344)銘の舎利塔(国重美)もある。

市川俊介著『岡山の神社仏閣』より