金龍山 江原寺(久米郡美咲町里2819)

本尊 金剛界大日如来

縁起

 本寺は、真言宗高野山高祖院の末寺で、慶長年間の創立。本尊は大日如来、脇座は不動明王と毘沙門天、本尊像内には、「嘉暦二歳五月、大日如来並不動毘沙門造之 願主同庄与野村在住清□ 大仏師播磨国山里住侶信阿弥陀仏」の銘がある。当処権現は牛頭天王(牛馬の神様)、当鎮守は善覚稲荷明神社(であるという。草創から六百有余年を経た平成元年十二月、岡本弘郷十八代住職は前住職寛照師の遺志をつぎ、檀徒に諮って、御本尊開扉法会奉修を発願、五カ年の志納金勧募により各種法具を新調整備し、平成六年に同法会が厳かにとり行なわれた。
 「江原寺 当山は紀州高野祖院の末寺で、応永元年(1394)、仏法の盛んであった足利義持時代の創立で、本尊大日如来の尊像は天長五年(828)、高祖空海上人諸国巡行のみぎり、当所大谷の里なる一宇の宗堂において一力三礼をもって刻み給ひしものをその後当山に安置し奉ったもので、時の領主江原兵庫祐親次の祈願にかかるのである。親次は慶長三年(1598)五月十七日、朝鮮釜山浦で病死し、当時家臣がその遺骸を持ち帰って当寺に葬り、時の住職徳蔵坊にその姓を授け、なお当山を金龍山江原寺と改称し、以来江原侯の菩提所とした。

 親次の卒後ここに三百二十五年を経ている。寺としても宝物、古文書等昔を誇るにたるべきものがあったが、明治初年の火災にことごとく焼失し、今日では江原親次が朝鮮から持ち帰った釈迦の涅槃像を止めているのみ、遺憾というべきである。」
 「金龍山江源寺 当寺は中山手里村にあり。府より四里半、江原氏の菩提道場なり。初め江原兵庫助親次は宇喜多中納言に仕え、倭文庄内を領す。かつて中山手寨にあり、後大庭郡において加封をうけ、すなわち篠向城に遷る。文禄巳後、朝鮮の役に黄門(宇喜多秀家)に従うこと両次、慶長三年五月十七日痢を患いて釜山に卒す。嗣なくして絶ゆ。親次は平昔より仏乗を欽きんし、死に瀕していわく、我終わらば速やかに骨灰を焼収して送り、これを本邦高野山にうずめよ、彼山の桜池院龍海と法契あり、事は皆海に委ねよ。また、食邑中山手に父祖の墳墓あり、一宇をこの地に立て、もって我牌を安ぜよ。言いおわりて逝く。

家士、原、森屋、喜多、国米、遠藤、黒瀬は喪を持して帰り、胥議皆遺命にしたがう。この寺既に成り、号を竜海に乞う。海は、命に金龍山江源寺運光院花含浄金居士(普く竜海牘書を見るに江原寺の源、当に原に作るべし、けだし名を氏に取る。海偶々江原と書せる者か、仰々又江と源と互に義を取るが、未だこれを詳にせず。)をもってす。親次はまた幻住庵主存悦をもって法友となし、悦、訃を聞き、大いに悼み、ために牌を置き、瑞剛院前武庫少令風厳等波居士と号す。
本堂 本尊の大日如来は弘法の作なり。古米邑に大日堂ありてこの像を置く。江原寺の成るに及んで本尊をここに徒す。脇士は不動、毘沙門。本寺 高野山高祖院。境内 東西八十八間、南北四十二間。」
 江原侯顕彰碑 江原寺境内にある。江原親次の二百五十回忌に当り、江原旧臣の後裔によって建立された。

寺宝・文化財

・釈迦涅槃図

高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場会発行『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より