真暁山 当林寺(美作市真加部297)

本尊 阿弥陀如来 

所属宗派 浄土真宗本願寺派

開基 天正年間、当林坊智親入道

縁起 略縁起によれば、当林坊智親入道は加賀国金沢の生れで、先祖代々前田家に使え、武道を以って業とし、諸国の人皆よく知る所であったが、智親の代となり養子に別れ、無常迅速の管理老少不定会者定離、を眼前にみて厭離穢土欣求浄土の思いより、出家得度して坊号を以って釈名とし、浄土真宗に帰依して仏道修行の砌り、当国美濃の里に滞在して慶長三年勝田の郷寺谷に庵室を建て弥陀三味に専念して三十有余年、寛永六年八月二十五日七十三歳を以って目出度往生、法名を釈当林、当林坊智親を以って開基とする。是より先、智親に一女あり、釈名を妙秋と云う、愛弟子念頭聟養子となり法灯を嗣ぐ。その頃までは道場であったが、何時の頃にか寺谷を出て現在の寺域より東方、今西屋辺りに移居す。念頭は義父智親の坊号を以って真暁山当林寺と称し、天和元年十一月六日付本山より許可を受く、念頭の釈名を宗体と云い第一世となる。寛永八年臘月二十六日に火難あり一村悉く焼け、当寺も亦類焼に罹る(天正年中とも云い又一説には万治元年とも云い詳ならず)。二世了円の時享保五年再度火災に遇い、三世了願の代になって享保八年現在の地に堂宇及び庫裡を建て、宝暦元年には山門と鐘楼を同時に建立、そして本尊阿弥陀如来立像、聖徳太子画像、見真大師画像、三国七高僧画像等を本願寺准如上人に願い安置す。斯くて寺の基礎漸く確立し了願を中興の祖とする。創立以来住職は代々世襲で開基智親、一世宗体、二世了円、三世了順、四世義順、五世義正、六世義聞、七世義浄、八世義円、九世義観、十世義定(義暁改)、十一世義薫、十二世現住職義静
 大十世義定は義暁と称した頃、慶応二年の沼田騒動の時他の三カ寺住職共に鎮撫に奔走した一人である。
 尚、勝田小学校沿革誌に、明治八年二月八日真加部当林寺を仮校舎として開校し文真校と称すとあり、明治十年校舎に移転したるもその仮校舎は昭和四十二年改築の為取り壊した庫裡の一部であった。

 

寺宝 

古文書(本願寺代十世証如上人自筆)
 天正の火災に焼けてその光輝を放つ、其の紙片が田園の中の一樹にかかれり、御一章一巻悉く焼けて結句と名判のみ残れり、そして光輝を放つ、其の光尤にして人皆奇異の思いをなし随喜の涙を流し、その奇瑞を感ずと云う、証如上人は本願寺代十世の高僧なり(美作誌より) 
名号石(石の表面に「南無阿」裏面に「弥陀仏」とあり)
 親鸞聖人、野州宇都宮花見の岡の川辺にて小石を拾い名号を書き河水に投じ給えば虚空に花降り花見の岡と名付く、今その名号石を適々拾い得るものあり是れその一つなりと云う(美作誌より)
本尊阿弥陀如来立像(長一尺八寸)木像、康雲作
 康雲はドジョウヒゲの康雲とも云い京都岡崎の住人、江戸時代(元禄)の仏師
鯱鉾
百姓一揆関係文書(慶応二年の沼田騒動)
作州地図 文政十一年発行 田熊井上蔵版
聖徳太子伝十巻 寛文六仲春吉旦
俳諧七部集全七巻 天保八年六月求版
柿の古樹 樹齢300年前後と推定、樹の枝先迄瘤多し
たらいば一樹 主幹は一丈位の高さで枯れ、一本の枝が生い繁り葉を支える
キセル貝 境内の東隅に多数棲息、陸に住む珍しい巻貝
乗物駕籠 住職用破損甚し
宝筺印塔