宝鑰山 顕密寺(美作市尾谷1111)

本尊 観世音菩薩

縁起

 大字尾谷上にある真言宗古義の古刹で、本山は京都御室の仁和寺。院号は偏照院。当山の開基は紀州根来寺の覚鑁上人。
覚鑁上人諸国巡錫のとき美作を訪れ、しばらく真島郡美甘庄(現真庭郡美甘村)にとどまり覚鑁山宇南寺を建立し、自作の観音像を安置した。その後勝北郡小吉野庄に一寺を建立し十一面観音像を安置したが、檀徒もなく寺号も定まらぬうちに荒廃してしまった。その後承久三年(1221)承久の変に敗れた後鳥羽上皇が隠岐に流されるとき、天皇はこの地を通過されたが、天皇の御輿が自然にこの地にとどまった。不思議に感じた天皇が所の者にところの由緒を尋ねられたところ、快伝上人がところの村人にかわって覚鑁上人作の観音像、不動明王像と鎮守の弁財天、善女龍王を祭る小祠がある旨を奏聞した。そこで上皇は快伝に廃寺の再興を申し付けた。その後ある夜の快伝の夢枕に宝輪童子が現れ、この寺の本尊は観世音菩薩であるが、善女龍王の随身の自分が観音を助け、国土安全、衆生済度に努める旨を伝えた。そこで快伝建立の寺を宝鑰山とも宝鑰寺ともいったという。そのときを「貞応元年壬午五月」とするが、貞応元年は西暦一二二二年、すなわち承久の変の翌年である。この年月が正しいとすれば、寺号が決定したのは後鳥羽上皇通行の翌年、快伝上人のときということになる。

 やがて南北朝の時代になり、小吉野庄も南朝方と北朝方との合戦の舞台となったので、英田郡巨勢庄の大山へ移し、寺運はますます栄え、寺号も顕密寺と称するようになったという。
 朝野の尊信を集めたが、とりわけ英田郡江見庄の地頭江見次郎はこの観音をあつく信仰し、堂塔伽藍を壮観麗に営んだという。しかし天正七年(1579)備前の宇喜多直家のため兵火にかかって一山消滅し、わずかに本尊の観音像、脇立の不動明王像、大師像と曼荼羅、涅槃図のみ難を逃れた。法印隆永は難を逃れた仏像、仏画を抱き、この尾谷の奥に隠れたが、江見氏の子孫の江見治左衛門なる者が、その父祖の志を継ぎ、自分の隠居所の宅地を寄進して顕密寺を再建した。しかしその規模は焼失前の100分の1にも及ばなかったという。
 現在の庫裡は昭和十三年、福本の田中広司宅を移築したもので、慶応の改正一揆のとき傷つけられた柱の傷跡が残っている。

行事

顕密寺には「五大力餅会陽」という珍しい行事が伝わっている。これは二斗の上餅(直径八十センチ重量五十三キロ)三斗の下餅(直径九十センチ重量八十一キロ)の大餅を、一メートル四方の頑丈な三方に乗せ縄でしばる。総重量は百八十キロになる。それを法被を着て鉢巻きを締めた力自慢の若者が抱え上げ、歩いてその距離の長さを競う。また子供たちのために、五十三キロの餅を抱え上げて、持ち続けた時間の長さを競う行事も行われる。現在は二月の第一日曜日が会陽とされ

寺宝・文化財

・鰐口
 青銅製で直径三十五センチ厚さ十三センチ、銘に「勝北郡小吉野庄内、顕密寺之常住物也、永徳四年甲子五月十三日、願主沙弥性慶敬白」と刻まれている。永徳四年(1384)は南北朝の末期で、県下で五番目に古い鰐口で、顕密寺が勝北郡小吉野庄にあった当時の物で、寺伝を裏づける貴重な資料である。
・三耳壷
 厚手のらっきょう壷といわれる高さ三十センチの素朴な古備前焼きの壷である。この壷が美作町下倉敷大山字遍照院一三九四番地で発見された。この場所は小吉野庄から顕密寺が移った巨勢庄大山で、天正七年戦火に遭ったところである。発掘されたのは三重塔の跡地で、経文、供物を納めて埋葬していたが、それらの品物は兵火で焼けたが壷だけが残ったものといわれている。
・掛け軸
 弘法大師の直筆と伝えられる「南無阿弥陀仏」。
 足利義満の寄進と伝える涅槃図。縦180センチ、横120センチの掛け軸で、これは義満の祖父尊氏が家宝としていたものというが確証はない。
・版木
 両面に彫り物があり、表面に「弁財天曼荼羅」、裏面に「大上神曼荼羅」が刻まれている。作者も年代も不明である。印刷して檀家や信徒に配布したもののようである。