聚法山 薬王寺(真庭市阿口1658)
本尊 薬師如来
開基 大同二年弘法大師
弘開明校開き、教育中心道場
難工事を極め鉄橋やトンネルが続く北房ー大佐間の中国自動車道の下の木谷県道を真庭郡落合町へ向かって走ると、参道完成の石碑が建っており聚法山に到着する。山の中腹、標高焼く五百メートルの地に甍を垂れる同寺は、弘法大師開基と伝えられる古刹である。阿口地域は現在約百戸の農村地帯であるが、このお寺はかつて「開明校」(現阿口小学校の前身)として客殿が解放されていた歴史を持ち、地域の教育文化の中心だったことを偲ばせてくれる。
同寺草創は天平元年(729)と伝えられている。同寺から東の方向に「真如池」があることから、元「真如院」と称していたとも、北の方角に「鐘撞」の地名が残っていることから「東光院」と称していたともいわれているが、詳細は不明である。
大同二年(807)四月八日、中国地方を巡錫していた弘法大師は、この地に鎮守・筏山牛頭天王を祀ったと伝えられている。実際に弘法大師がこの地を訪れたかどうか、今となっては知る術もないが、この地に大師巡錫伝説が残されていること自体に、先人の篤い信仰心を感じさせ、心温まるものがある。
またその昔、同寺は孝謙天皇の勅願所とされたという。近世初頭、毛利輝元公の家臣・小縣三郎左衛門公が検地した時も「除地」とされ、以来松山城主は代々、旧例によって「除地」としていることからも、それ相応の寺格を有していたことが窺える。
しかし、同寺は度々、火災に遭い一時、無住状態の時もあった。昭和十五年に入山した現在の天野住職は本堂屋根葺き替え、仁王門再建、梵鐘再鋳、本堂(薬師如来坐像)・脇侍(愛染明王と聖観音菩薩)補修、鎮守社本殿改装・拝殿新築と、次々と伽藍を復興した。”再興の人”でもある。
特に歴代住職の中でも特筆されのは、現住職から三代前の鞍前宥懌住職である。明治八年十二月、当寺の宥懌住職は、現在の阿口小学校の前身である「開明校」を客殿が解放し、自らも教鞭を執っている。阿口地域の人々の教育・文化振興のためにお寺を開放した功績は高く評価されている。
主な行事
正月 | 修正会 |
三月 | 正御影供・彼岸会 |
六月 | 宗祖降誕会 |
八月 | 盂蘭盆会 |
九月 | 彼岸会 |
十月八日 | 本尊供 |
『高野山真言宗備中寺院めぐり』より