天龍山 昭福寺(倉敷市茶屋町320)

本尊 阿弥陀如来

開基 宝暦五年妙林尼

開山 妙空尼

中興 嘉永三年常應尼

代代々、尼僧によって護られた庵勢

JR瀬戸大橋線の茶屋町駅から南西の方向へ歩いて約十分。市営墓地の反対側に茶屋町の葬祭場があるが、その一角に天龍山昭福寺の石柱が建っている。現在、伽藍は僧房と地蔵堂しか残っていないが、これらを包み込み覆うように立っている直径八十センチ前後の老木が、信仰の歴史を物語っている。
 同寺は昔時、「五反庵」、または「乾坊」と呼ばれた。文久二年(1862)の「御免地御書付」に「南堤下。一、 田五反。村内墓所。無年貢」 とあるから、五反庵はこの名に由来するのであろう。乾坊は駕龍寺(倉敷市二日市)の末庵となっているが、その時期は不詳である。
 開基の妙林尼は茶屋町帯沖の人。若くして夫と死別し仏門に帰依。四国八十八カ所霊場を二十一回も巡拝するなど、 信仰生活を過ごしていた。そこへ、庵舎建立の動きが起こり、妙林尼は奔走して村内の篤信の人々と共に墓地の一角 に庵舎を建立し弘法大師を祀った。宝暦五年(1755)のことである。しかし、妙林尼は自らは開山とならず、知 人の妙空尼を阿波国(徳島県)から拝請し庵主としている。
 その後、乾坊となった時、駕龍寺から持参した弘法大師像を本堂に安置した。その後、常空、高俊、常應と代々尼僧によって法燈が受け継がれた。この三人の尼僧による約八十年間は安永から嘉永にわたる天下泰平の時代で、村も繁栄し庵勢も隆盛した。
 嘉永三年(1850)、常應尼は更なる発展を期して本堂を移転改築。これによって中興とされている。
 明治に入ると、三十八年に亀山知昭尼が本堂を新築。さらに昭和三年には寺格を上げて天龍山昭福 寺と改称した。およそ二百四十年、その法燈は代々、尼僧によって受け継がれ今日に伝えている。

年中行事

8月24日 地蔵盆

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より