西福寺(倉敷市連島町西ノ浦4943)

本尊 薬師如来

由緒を秘めて、薬師信仰を現代に伝える 

 倉敷市のほぼ中央にある連島川塊を中心として南部一帯に開かれた地域が連島であるが、水島臨海工業地帯に近く、その住宅団地を見おろす山の中腹に建つのが西福寺である。この一帯は古くは、高梁川河口に栄えた内海港で十七世紀(延宝年間)以後、約百年に亘って行なわれた干拓によって造成された地である。山の中腹に建つ同寺境内から倉敷市街を望むと、その状況が納得できる。
 同寺の開基や沿革は明確ではない。ただ、この地帯一帯に強大な勢刀を誇っていた連島町矢柄の真言宗御室派宝島寺の縁起に登場するから、かなりの歴史と由緒をもっていたことが窺える。
 宝島寺は貞観元年(859)に理源大師聖宝によって開基され、古代、中世には広大な寺域を誇った。江戸初期に火災に遭い、 規模を縮小。寛保元年(1741)、梵語学者で知られる寂厳が住職となって中興した。
 西福寺が登場するのは、寂厳より二代遡る快應僧正の代である。同寺にはかつて鐘楼があり、その銘文を寂厳が記したとされている。それによると快應代である明暦年中(1655−58)にはすでに坊としてあったとされている。しかし、残念なことにこの鐘楼雌無くなっており、伝説として伝えられている。
 宝暦二年(1752)には坊から寺院に昇格し以後、結構が整えられたようだ。寛政六年(1794)には常夜灯を建立。天保十三年(1842)薬師堂石段改修を発願し、翌年に完成している。その後、栄枯盛衰があり、昭和五十五年に大師堂と客殿を落慶している。
 現在は境内周辺が墓地となっており、寺院は地元住民の集会所的機能も果たしながら、物心両面にわたって拠り所となっている。
 本尊は薬師如来。その誓願の・中には「除病安楽」があり、いかなる医者、薬によっても治らない病気も、薬師如来の名を聞いたなら、必ず除かれると誓ってある。現代のように医療とは無縁の昔の人々にとっては、病に冒されたとき大きな支えとなったことだろう。

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より