萬寿山 報恩寺 寶幢院(倉敷市鳥羽390)

本尊 阿弥陀如来

開基 天平勝宝年間報恩大師

中興 永享年間宣深僧正

後鳥羽帝の後裔宣僧正が中興

 JR山陽本線中庄駅から南へ約一キロ。岡山県倉敷スポーツ公園野球場東側の丘の上に萬寿山報恩寺寶幢院がある。同寺に登る参道の階段の下には仁王門があり、表には大きなわらじが奉納されている。石段を登り境内に入ると、広い境内に本堂、大師堂、庫裡、客殿、鐘楼堂、鎮守社妙見宮の諸堂が軒を連ね、老松などの樹木との調和が素晴らしい。
 寶幢院の詳しい寺歴は、過去幾度かの火災によって記録資料等が焼かれてしまったため不詳とされている。残された言い伝えなどによると、寶幢院は奈良時代に吉備地方を中心に活躍し備前四十八ヵ寺を建立したといわれる報恩大師によって天平勝宝年間(749-757)に開基されたと伝えられている。そのため同寺の寺号は報恩寺となっているという。
 山号の「萬寿山」は、寶幢院のある周辺の平地が、萬寿年間(1024-28)に新開されて、「萬寿の庄」と呼ばれていたことから名付けられたという。また、現在の本尊は阿弥陀如来であるが、開基された時は行基菩薩作の薬師如来だったということで、報恩大師が、当時の本尊のご利益をもって万民の福寿を祈って名付けたともいわれていわれてい る。
 平安時代末期の寿永年間(1182-84)の頃には、源平の戦いの兵火に遭い伽藍はことごとく焼失。その後、永享年間(1429-41)に宣深僧正によって再興されている。この宣深僧正は、備前国児島の生まれで、御鳥羽天皇の皇子・桜井親王の後裔。永享年間に、万寿の庄に来錫したという。 この地が現在、「鳥羽」と呼ばれているのは、宣深僧正がこの地に後鳥羽帝の塚をつくったことから名付けられたという。
 同寺から、南へ数百メートル離れたところに、「加持の井」と呼ばれる井戸が残っている。この井戸の水を飲むと「諸病平癒間違い無し」と当時から信仰を集めていた。また、言い伝えによると、その昔寶幢院には五重塔が建っていたという。現在は、昔に起きた火災で焼失したためその姿はとどめないが、今でも同寺近くに「塔の前」という地名だけが現存している。

年中行事

毎月25日 本尊講 

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より