庄満山 寶福寺(倉敷市下庄265)

本尊 薬師如来

開基 天平勝宝六年報恩大師

中興 明治二十二年因徳行雅僧正

二ヵ寺の法燈を受け継ぎ、現代に伝える

 旧国道2号線を倉敷から岡山方面へ向かい備中庄の交差点を南へ入ると、田園風景が残る中に庄満山寶福寺がある。同寺は明治末期に「宝性寺」と「霊福寺」を合併し、それぞれの寺号から一字ずつとって名付けられ、霊福寺に合併され、今日にその法燈を伝えている寺院である。
 この両寺の開基については、大正九年三月二十七日と彫り込まれ、境内に建っている石碑に記録が残っている。それによると、宝性寺は下庄字幸田という地にあり、霊福寺は上東字萬茶羅寺にあった。開基は備前四十八ヵ寺を建立したことで知られる報恩大師で天平勝宝六年(754)となっており、かなりの歴史を有した古刹である。
 報恩大師は奈良時代の僧侶で、誕生は不明であるが、延暦十四年(795)に亡くなったとされている。この間、孝謙天皇の病気加持祈祷や桓武天皇の病気平癒を行ない、大師号を下賜された。岡山地方では広範囲に布教活動を展開。備前に四十八ヵ寺を建立したと伝えられ備前、備中の古刹のほとんどの縁起に登場する。
 宝性、霊福の両寺も往古は日差山にあり、寛永年間(1624〜44)に移転している。報恩大師によって開かれた日差山は倉敷市山地にあり、高松城水攻めの時、陣所となり堂塔伽藍は悉く破壊されているが、相当な寺院を抱えており、宝性、霊福の両寺もこの時期に開かれたものであろう。また、同寺は中備四国六番と西国三十番の札所でもあり、四百年前に造仏されたという本尊・薬師如来と共に、篤い信仰の足跡を残している。
 明治二十二年、両寺は維持困難になり、時の住職・因徳行雅僧正は総代と『相計り、合併して宝福寺と称した。現在地は霊福寺のあった地で、本堂、庫裡、山門が端正な佇まいを見せている。平成五年九月には山門と鐘楼堂が落慶し、その威信を新たにする。

行事

8月 施餓鬼会 5・8・11月の10日に鎮守金比羅宮の大祭

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より