中島山 実相院 実際寺(倉敷市中島516)

本尊 阿弥陀如来

開基 元和二年舜海阿闇梨

二松学舎大学創設者ゆかりの寺

 JR川陽本線・西阿知駅から南東約一キロ離れた所に中島山実相院実際寺がある。同寺は元和二年(1616)に当時の中大道城主だった建部民部慰政喜によって開基されている。
 建部氏は、西阿知の遍照院に身を寄せながら、現在実際寺のある中島地区の干拓などを手掛け元和二年頃に開発を終えている。 その年に先祖の聖霊菩提のため、開発した中島に中島山実相院実際寺を建立し舜海阿闍梨が第一世住職となっている。
 実際寺は、二松学舎大学の創設者である三島中洲翁ゆかりの寺院として知られている。
 中洲翁は、江戸時代末期に生まれた漢学者。十四歳の時、備中松山藩の陽明学者・山田方谷に師事し、その後幕府の最高学府だった昌平黌で学んでいる。明治五年には司法省に入り大審院判事など歴任後、同十年「漢学塾二松」(現在の二松学舎大学)を創設。 さらに、東京帝国大学教授、学士院会員になり、東宮侍講として後の大正天皇に漢学などを教授している。大正八年九十歳で永眠した。
 同寺にある三島家の墓地には、中洲翁が先立った母や兄へといつまでも一緒にいたいとの思いから明治三十六年に母と兄の墓石の 傍らに自分の歯を埋めて建立し「生歯の碑」がある。同碑は、高さ1.3メートル、幅85センチで「父也客死 葬在東京 吾百歳後 願侍孤螢 歯乎歯乎 亦吾片形 送汝桑梓  永侍母兄」と彫られている。
 また同寺にある「節士・三島時政の墓碑」も有名。当時、節士.三島時政は定太郎と称し、中島村の里正・三島縄正の長男で 里正見習いをしていた。慶応元年(1865)に幕府が第二次長州征伐を行なった時、倉敷代官・桜井久之助も出陣。時政は留守居役の一人として代官所に残り、慶応二年(1866)四月九日、第二奇兵隊の脱走者百余人に代官所が襲撃され 十五ヵ所刺され十八歳の若さで生涯を終えている。幕末の悲劇として語り伝えられている。
 ちなみに、実際寺から250メートル南北に離れたところにある中洲翁の生家跡には、昭和五十九年に二松学舎大学の「中洲の思想、功績を広く知ってもらいたい。創設者の生誕地として後生に伝えよう」との願いで記念碑が建立されている。

年中行事

1月 初大師 3月 彼岸会
4月 四国霊場巡拝 8月  ほとけ送り
9月 彼岸会 10月 ほとけ送り
12月 除夜の鐘    
毎月23日 本尊会 第3日曜 写経会
第2、4日曜 仏像彫刻会    

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より