医王山 高蔵寺(倉敷市中島1861)

本尊 薬師如来

開基 承応二年海誉阿闇梨

鴨居の漆喰に浸水の跡残す

 JR山陽本線西阿知駅から東へ約十五分。見えてくる派出所のすぐ隣りに医王山高蔵寺がある。境内に入ると、右手に緑錆色の鋼板葺きの屋根が印象的な本堂がそびえている。その本堂の中に安置されている本尊は、秘仏とされている薬師如来。他に、大日如来、 日光・月光菩薩、十二神将も安置されている。
 高蔵寺の創建は、承応三年(1654)海誉阿闇梨が第一世住職となっている。近年まで高蔵寺の創建について、『都窪郡誌』 「中洲町誌」「倉敷市史」などでは、いずれも不詳とされてきた。しかし、最近になって発見された古文書によってその創建が明らかにされている。
 その古文書には、高蔵寺のある中島地区は今から約三百八十年前に、当時の中大道城主だった建部民部慰政喜によって干拓され、その後、中島地区への入植者が年を追う毎に増加していき、寺院が必要となってきたため、中島地区の 東端に高蔵寺が建立されたと記されている。干拓事業が終了した頃に第四十二番実際寺が建立されてから三十八年後のことである。初代住職の海誉阿闇梨は元禄二年(1689)に入寂している。
 また、高蔵寺ゆかりの名僧として寂腎和尚がいる。寂賢和尚は十一歳の時、高蔵寺の寂意和尚によって落飾。高野山にも登り研鑽を積んだ。そして明治の初期には、仏教が衰微したのを愁い各地を説教して回ったという。明治六年(1873)に入寂。名僧の誉れ高く、中島上町に供養塔が残っている。
 中島地区は干拓地のため、昔から水害の多い地区であった。高蔵寺には、この水害時の浸水の水位を示す跡が遺さ れている。客殿の鴨居の漆喰の約二メートルの一高さの所に横に水平な線が入っていて、上と下とで少し色が変わっている。上は白いままだが、下は浸水してきた水のため少し茶色に変色している。
 中島地区の西側には高梁川が流れ、東側にはその支流である足守川が流れている。干拓当時から、まだ水害対策が充分でなかった昭和の初めまで、大雨が降ると死者を出す程の大洪水がしばしば起こっていた。客殿の鴨居や壁は、 その記録として残しておきたい、との天野住職の考えで、塗り直されずに当時の様子を今に伝えている。

年中行事

1月初 薬師護摩供養 5月 高野山団参
7月 子どもまつり 8月15日  仏送り
その他毎月7日お薬師さん縁日    

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より