吉備寺(倉敷市真備町箭田3650 )

 吉備寺は、岡山県の偉大な先賢吉備真備(695〜775)の菩提寺として有名であるが、江戸初期までは真蔵寺といった。元禄時代に当寺の領主伊藤長救が、郷土の生んだ先哲の遺業をしのび、後人の誇りと発奮を願って、吉備寺と改めたといわれる。
 この寺がいつ建造されたかは不明であるが、現在寺に保存されている白鳳時代の「蓮華模様鬼瓦」(国重文)、礎石などが発掘されていることから、創建期は推定できる。寺のすぐ南の高台に、伝吉備真備の墳墓碑があり、墳墓のことを俗に”吉備さま”と称している。
 真備は持統天皇九年(695)、左衛士少尉(下級武官)下道朝臣圀勝(しもつみちのあそんくにかつ)の子として、吉備郡真備町八田に生れた。二十二歳のとき、安倍仲麿・僧玄坊(げんぼう)らと留学生として入唐した。真備は帰朝後、大学助(だいがくのすけ)(大学教授)と東宮学士(皇太子教育係)に就任した。
 真備は天平勝宝三年(751)、遣唐副使として再度渡唐した。帰国後、太宰大弐(だざいのだいに)に任ぜられ、天平宝字八年(764)、造東大寺長官に進み、恵美押勝(えみのおしかつ)の乱に軍事用兵の妙を実地に試みて成功した。参議を経て右大臣に昇ったのは七十二歳。地方豪族の出身者としては異例の出世であり、奈良末期の政治・文化の面に大きな足跡を残した。愛用の琴を友として郷里で余生を送ったという。真備町では毎年中秋名月の夜に、琴を弾じて真備をしのんでいる。

                  市川俊介著『岡山の神社仏閣』より