瑜伽山 蓮台寺(倉敷市由加山2855)

 児島半島の中央にある由加山(標高約30メートル)は、讃岐の金比羅宮とならび称せられた備前の瑜伽大権現の霊場であり、”児島の鬼”の伝説地でもある。瑜伽大権現は蓮台寺と由加神社の総称である。
 この門前町は昔の面影をよく残しているが、江戸時代には安芸の宮島、備中の宮内などとともに歓楽地として殷賑(いんしん)をきわめたところである。
 縁起によると、瑜伽山は天平五年(733)聖武天皇の勅願により、行基が開山したと伝えられ、児島半島における最初の仏閣である。行基は、この山村の茅屋に泊まった夜の夢に、神人が現れて、この山に瑜伽大権現を祀るようにと告げた。そこで行基はここかしこたずね歩いたすえ、ことさらに無垢清浄の霊場として、この由加の地を定めた。そうして、大般若経六百巻を書き写して埋め、ここを経尾と名づけ一寺を建立した。これを経尾山瑜伽寺摩尼珠院と名づけ、かの神の神託に従って瑜伽大権現を建て、阿弥陀・薬師二体をみずから彫刻し、これを仏法王法の守護神とした。
 延暦年中(782〜805)阿国羅王という夫婦三児の悪鬼が、寺内の人々や近隣の民を傷害したので、桓武天皇は坂上田村麻呂をつかわし討させた。悪鬼は敗れ七十五匹の白狐と化し、瑜伽大権現の使隷となった。天皇は田村麻呂に命じて、それまで荒れ放題であった塔頭を再建させ朝廷の祈願所とした。それ以後歴代朝廷の祈願寺として栄えた。
 その後、源平の戦いなどによる兵乱の時代がつづき、時代の変遷とともに他の寺社同様、瑜伽山においても寺内に荒廃の色が濃くなってきた。その後、応永年間(1394〜1427)名僧増吽が住職になると、寺の復興に献身的に努力し、寺運はしだいに隆盛にむかい、今日の蓮台寺の基礎をつくった。
 江戸時代にくだると、岡山藩主池田氏がこの瑜伽大権現を尊崇、数々の寺領を寄進し、池田家祈願所とし、正月、九月の縁日には自ら参詣した。また庶民はこの大権現と讃岐の金比羅宮とをペアーと考え、どちらか一方だけ参ると、”片参り”といわれ、おかげが少なかった。商人や回船業者の信仰が特に厚く、玉垣や常夜燈などに、江戸の商人「塩原太助」、阿州(徳島県)「藍屋」、京都「近江屋」など全国の豪商の名が見られる。
 寺域は広大であるが、備前焼の鳥居をくぐった東手に由加神社、さらにその東側に蓮台寺本堂、そして南の山の尾根に多宝塔が建っている。神社の西手には、参道をはさんで蓮台寺客殿・庫裡・宝蔵などがあり、参道正面の高い石段の上に瑜伽大権現を祀る権現堂がある。このように神仏の建物がいっしょにある配置は、神仏混合の大権現時代の名残りで興味深い。
平成十年には、別格本山蓮台寺の本尊十一面観音・厄よけの御本尊瑜伽大権現・宗祖弘法大師の「瑜伽三尊」をお祀りする、祈祷と供養の殿堂「総本殿」が完成し、過去と現在が調和した大伽藍となっています。
 由加神社本殿(県指定)は、神仏分離以前の瑜伽大権現の本殿である。岡山藩主池田継政が延宝四年(1676)に再建寄進したもの。桃山時代の豪華な装飾をよくとどめている。屋根は吉備津神社本殿をみならって、比翼入母屋造り。蓮台寺客殿(県指定)は寛政十一年(1799)に再建されたもので、内部は七宝に分けられ、それぞれ描かれた画題にちなんだ名前がつけられている。その襖絵は、菅蘭林斉、柴田義董、円山応挙などの力作ぞろいである。さらに「菊慈童図屏風」(県指定)は江戸初期の京狩野山楽派の絵師の筆になるものであろう。
 多宝塔(県指定)は天保十四年(1843)そのころ児島郡きっての名工といわれた大塚清左衛門隆悦が再建した。その他梵鐘(県指定)は弘安二年(1279)の作で美しい。

市川俊介著『岡山の神社仏閣』より