補陀落山 藤戸寺(倉敷市藤戸町)
藤戸寺は、天城と藤戸を二分する倉敷川にかかっている盛綱橋から近いところにある。寺の創建は、奈良時代に仏教のため全国を行脚した行基が、この地にやってきて、藤戸寺など六つの寺をつくった。
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「縁起」によると、「慶雲二年(705)、藤戸の海から千手観音像が発見された。・・・・。それから三十年後、行基がきたとき、千手観音を本尊として藤戸寺をつくり、自ら開山となった。伽藍(がらん)は十二坊を数えるほどの壮大な規模で、位置は現在の寺の上部に建てられていた。」と記している。
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ここは、平安末期に行われた有名な”源平藤戸合戦”の地で、盛綱橋にみられるように合戦の主役を演じた源氏快勝の武将佐々木三郎盛綱とこの寺の関係は深い、平家滅亡後、戦功により児島の地を領地した盛綱は、再入国したとき、合戦で荒れたこの寺を修理するとともに、源平両軍戦没者の霊をとむらった。その際、あわれな物語として、盛綱が合戦前夜、藤戸海峡の浅瀬を教えてくれた漁夫を、敵や味方にもれることを恐れて切り殺した。その漁夫の供養にこの寺で大法会を行い、境内に供養塔(県指定)をたてた。
この宝塔は、かこう岩製の高さ四メートル、台石九十センチ、四方は五重石。県内では一番古く、全国的にも珍しい。この造立は元久元年(1205)藤戸寺から200メートルほど離れた経ガ島にも、経塚と六角形の石塔がある。
この経ガ島は、この寺の飛び境内だった。これも盛綱の造営したものであるという。
平家滅亡の歴史のなかで、この藤戸合戦は平家が本土の拠点を失った一戦で、佐々木盛綱の果した戦功は大きい。その盛綱ゆかりの藤戸寺の歴史的意義もまた重要である。
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寺宝
・石造五重塔(県重文) 鎌倉時代
市川俊介著『岡山の神社仏閣』より