備福山 駕龍寺(倉敷市二日市600)

本尊 聖観世音菩薩

開基 平安時代報恩大師>

中興 正和元年頼宥法印

恵心僧都作の聖観世音菩薩

国道2号線のバイパスを倉敷の市街地を左手に見ながら岡山方面に向かうと空中橋と呼ばれるかなり高い所に架かつ た橋が見えてくる。その橋をくぐり、しばらくして右手(北側)を見ると備福山駕龍寺の大きな伽藍が見える。
 大きな仁王像の安置される赤門を抜けると白門がある。白門の二階楼閣には十六羅漢像が納められている。その奥に大きな本堂、客殿、庫裡、鐘楼堂などの諸堂が並ぶ。
 駕龍寺の歴史は、都窪郡山手付西郡の南に位置する福山の川頂に、平安時代に報恩大師が創建したと伝えられている福山寺にさかのぼる。
 福山寺は、建武二年(1335)に足利氏に味方した備中の豪族・荘兼祐が同寺を利用して城を構え、翌年新田義直方の大江田氏経がこれを責め落とし、足利直義の大軍迎え討ったという福山合戦に巻き込まれ焼失している。
 その後、応永七年(1400)に南禅寺一麟が残している記録や、応永末年に総社宮造営にも参加している記録から、同寺は応永年間のはじめには再建されていたと推測されている。
 当時、福山寺を中心に小池坊、東坊、西坊、乾坊、玉蔵坊、奥坊、天神坊、万福坊、鍛冶屋坊、真如坊、惣持坊、法積坊と十二の山内寺院があり栄えていたが、徐々に、山間部から新開地へ多くの人家が移って行ったために正和元年(1312)には福山寺の十二坊の内、小池坊の頼宥 法印が率いて、東坊、西坊、乾坊、玉蔵坊の五坊が都窪郡帯江村五日市に移転し福山正智院駕龍寺と号している。
 それから約四百年を経た第十四世高観住職の時代に元文四年(1739)から数十年の間に本堂、山門、十六羅漢堂、力士門、十王堂などの諸堂が建立されている。
 その後宝暦年間(1751〜46)に、小池坊、東坊、西坊の三坊が現在の同村二日市に移り今に至る。小林住職は、宥法印から数えて二十八世となる。
 駕龍寺の本尊は聖観世音菩薩。小池坊の本尊を移したもので恵心僧都の作と伝えられる。
 「福を見て与えずということなく、寿を希うて延べずということなし」といわれ、福寿海観音と呼ばれている。

年中行事

各月17日曜日 本尊講 

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より