高量山 高徳寺(浅口郡船穂町大字船穂3406)
本尊 毘沙門天
中興開山 寛永十五年宥智和尚
吉備文化圏の信仰に支えられて
高梁川沿いの、園風景の山裾に朱塗りの山門がひときわ光彩を放つ寺院がある。室町末期の作と伝えられる秘仏・毘沙門天を本尊とする高量山高徳寺である。南備四国霊場
八十二番で本願所となっていることからも、地元の篤い信仰に支えられて今日にその法燈を伝えていることが窺える。
同等が寺史に登場するのは寛永十五年(1638)である。上船穂郡犬神(現在の浅口郡船穂町一番地)の犬神神社の境内にあった日光山永寿院田中山坊の講堂を、「小山七太夫高次」を祭神とする高量(たかく)山大明神の聖地である現在地に移し、宥智和尚を中興開川として「高量山高徳寺」と称したのが始まりとされている。
この記録で注目されるのは、現在地が「新島」と記されていることである。同寺には飛地境内があり、北方に随求明王、南方に金毘羅宮が安置されている。高橋住職によると、「かつてこの一帯は、遠浅の海で、四国との交流も盛んだったようです。吉備文化圏として栄えて庶民によって〃氏寺〃として信仰を集めていたようです」と語るように、吉備文化の薫る庶民信仰に支えられた寺院である。
宝暦年間(約二百二十年前)には、檀信徒の崇祖の念を結集して堂塔伽藍を増築し、寺観を一新。また、第十一世
の湛智住職は、高野山の寺務検校・執行・法印まで極め、高野山無量光院の前官として、一寺院に留まることなく宗門においても重要な人材を輩出した古刹である。
しかし、明治の廃仏毀釈、戦争(梵鐘の供出)などにより荒廃し、戦後、一時は無住状態までになった。昭和四十四年に本山の推薦により入寺した第十八世の高橋道範住職は、ひたすら境内整備にその心血を注ぎ本堂再建、庭園整備を成し遂げ、往時の伽藍を築き上げた。
昭和五十八年一月、道純住職の遷化の後を受け継いだ現在のの智運住職も、本山で奉職した人。祖風宣揚のため増俗一体となって、布教教化の毎日である。
年中行事
旧暦正月 | 初寅大般転読法要 | 8月15日 | 精霊送り |
8月24日 | 地蔵盆 | 毎月3日 | 毘沙門天縁日 |
毎月17日 | 本尊講 |
『高野山真言宗備中寺院めぐり』より