平岩山 鶏徳寺(浅口郡船穂町大字船穂6738)

本尊 聖観世音菩薩

開基 大同二年弘法大師

後醍醐天皇が行幸し、寺号を改称

 船穂町の最高地点・平石山(標高156.3メートル)を背にし、眼下に清流・高梁川、倉敷市、水島工業地帯から、遠くは四国や瀬戸大橋をも望む絶景の地に舞えるのが平山石山鶏徳寺である。かっては六坊の塔頭を数え、遠近からの参拝が絶えなかったという古刹である。
 同寺は大同二年(807)、弘法大師の開基・本尊の聖観世音菩薩(木像と高さ18.2センチ)は町指定の文化財で、大師作と伝えら領主・水谷公によって勧請されたという。
 特筆されるのは、漁師と黄金仏の伝説である。天禄元年(970)七月十七日、内海の網にかかった黄金仏を同寺に奉安したところ、毎年七月十七日と大晦日、節分の夜の三度、南海に燈篭が昇り、同等境内の「カイヅカイブキ」の木の梢に留まって海路を照らしたという。以来、この木を「燈篭木」と呼ぶようになったという。現在も山門と鐘楼の間に古株となって保存され、眼下を照らし¢アけている。
 この「燈篭木」と同時に七堂伽藍が建立されたという。かつては本坊の成就院のばか金剛、胎蔵、東光 西光、南光、北光の六坊と三重塔が甍を並べ 遠近各地の参詣が絶えなかったという。
 しかし、長元二年(1029)、火災によってすべてを焼失。ところが、壽永元年(1182)に安徳天皇が平家と共に都落ちし、水島の地に陣を構えた時、海中より龍燈があがり、戦勝を祈願したところ、源氏に勝ったことから霊験あらたかであるとして鶏徳寺として再建。その後正慶二年(1332)、後醍醐天皇が隠岐島から京都へ還幸するに当たり、船穂を通過。人里離れた地から鶏の声を聞き、同寺へ行幸。この時、寺号を現在の鶏徳寺に改めたという。
 江戸時代には領主・水谷公の篤い庇護を受けて「御朱印三十五石」の記録も残っている。その後、北谷の北の坊と前谷の法蓮院が同寺に合祀されるなどするが、戦後、無檀徒、無住になり荒廃。現在の松本住職が入寺し、戦争で供出された鐘楼など再建(昭和五十七年)し、供出から四十年ぶりに古えより里人親しまれた鐘の青を響流させた。
 また、一方で >地域に伝わる伝統の本尊講を復活させ、備中浅口西国三十三観音霊場第二十一番札所として整備。新年には新たに護摩供を奉修するなど、今日にその信仰を甦えらせている。

年中行事

1月第1、第2日曜 大護摩供 8月 本尊供

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より