暁瀧山 寶満寺(浅口郡船穂町大字船穂3345)

本尊 大日如来

開基 大化年間法道仙人

中興開山 頼誉

「院宣」を下賜された由緒寺院

 かつて皇室から「院宣」を下賜されるなど備中路きっての名刹・暁瀧山寶満寺は、高梁川沿いに開かれた船穂の平野部を見下ろすように、北部丘陵地帯にその甍を垂れている。現在、同寺は備中支所下唯一の準別格本山で、皇室、武門との深い関わりを携えて今日にその格式と威厳を保っている。
 同寺は大化年間(645−650)に中国の僧・法道仙人仁‐少って開基されたと伝えられている。かつてこの一帯は海とされており、当時は北に山を背い、南に海が開けて海辺には白砂青松と、景勝の地であったことから仏法の都に適していると開基されたという。
 その後、幾多の変遷を経て後土御門天皇の明応二年(1493)、当時の住職・栄舜に対し皇室から「律師」の「院宣」が下賜。天文三年(1534)には、宗淳に対しても「院宣」が下賜されるなど、由緒寺院としての寺歴を有している。明正天皇の寛永年間(1624−44)には、頼誉が衰退した同寺の本堂、大師堂、客殿など次々と再建し中興の偉業を成し遂げ、中興開山となっている。
 明和二年(1765)には、丹波亀山藩主・松平紀伊守の帰依を受け、武運龍昌の祈願所に定められた。寛政八年(1796)十一月九日には、総法務宮の命をもって京都「御室御所御用所」である直末となった。天保十三年(1842)四月には、横算網代、乗輿、金挾箱、朱笠、杖などが許され、嘉永五年(1852)には、本山の京都・仁和寺から「故一品禅定大王尊牌」一基を同寺に納め、灰筋塀、下馬札、翠簾、御紋付幕なども寄進されるなどの格式を有している。また、元治元年(1864)には役院として長福寺、寿福院が定められ隆盛を極めた。
 古文書によると、山紫水明の寳満寺山中腹にあって、約三千坪の境内地には花木が多く、特に桜は有名で、花時には杖をひく人が山内に満ち溢れていると、記されており、その格式と由緒を偲ばせてくれる。
 中興開山・頼誉から数えて二十三世となる故.安正大僧正は、平成二年に伝統的工法と現代寺院建築の粋を集めて本堂を新築。戦後、幼児教育の重要性を感じ昭和二十三年に「たから保育園」を創設した人でもある。現在は第二十四代義正住職によって連綿と法燈が受け継がれ、「ぼけ封じ」三十三観音霊場第十七番、備中浅口西国三十三観音霊場第二十二番の札所として 観音信仰を集めている。

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より