修験道本山 御庵室 五流尊滝院(倉敷市林952)

 熊野神社に隣接して五流尊滝院がある。尊滝院は古く児島の地に発祥した修験道五流の一院で、後鳥羽上皇の第四皇子頼仁親王の庵室のある道場として知られている。

本堂

 美作の後山道仙寺が吉野修験(真言密教系)であるのに対し、この五流は熊野修験(天台密教系)である。院記によると、文武天皇元年(697)大和葛城(かつらぎ)にいた修験道始祖役小角(えんのおづぬ)がざん訴にあって捕えられ伊豆大島に流された。小角の高弟義学、義玄らは後難をおそれて、熊野本宮の神体を船にうつし瀬戸内海に脱出した。そして内海各地を三年間もまわり、小角が赦免になった大宝元年(701)に児島に上陸して、この地(福岡村)に神体を安置した。
 天平十二年(740)聖武天皇から神領として児島郡をいただき、天平宝字五年(761)熊野権現の社殿と本地堂・千射仏堂・五重塔・鐘楼・仁王門をたて、新熊野山と号した。ついで児島郡木見村(倉敷市木見)に新宮諸興寺をたて、山村(倉敷市由加)には本地堂を設けて新熊野瑜伽寺(ゆがじ)と号し、本宮と瑜伽寺と諸興寺をあわせて新熊野三山といった。

護摩堂

 新熊野権現には、太法院(開祖義学)、報恩院(同芳玄)、建徳院(同義真)、伝法院(同義学)、尊滝院(同義玄)の五院が奉仕した。その下に公卿十院があり、これらを合せて長床衆という。役行者の立行相伝の家として重きをなしたが、わけても五院はそれぞれ行法軌則のことなる修法を伝えて一派をたて、五流といって修験道の貫頂に座した。
 しかし、尊滝院は永観年中(983〜984)から衰微して一時は中絶の状態となった。鎌倉時代に入ると、政治の実権は朝廷から幕府に移り、藤戸の先陣の巧を賞するなど、新熊野山の財政をおびやかす事件がおこった。
 承久三年(1221)後鳥羽上皇の北条氏討伐の拳兵で、このことに反対した第三皇子覚仁親王は乱を避けて児島にくだり、荒廃していた尊滝院の境内に庵室を結んで滞留された。上皇のおこした「承久の変」は、幕府側の勝利に帰し、上皇は隠岐へ流され、第四皇子頼仁親王は備前児島に遷された。頼仁親王は兄覚仁親王のおられた尊徳院で、宝治元年(1247)配所の月を眺める身としてはもっとも恵まれ亡くなり、諸興寺に葬った。『備陽国誌』に「古廟堂ありしが今は石塔のみ残れり。」と見える。
 両親王は相当長い期間この地で生活をともにされ、その間父君後鳥羽上皇が隠岐で崩御され、その一周忌に覚仁親王が御影塔(宝塔=国指定)をたててご供養をした。
 南北朝時代から室町時代にかけて、新熊野の神領や寺領がつぎつぎに武士によって削減され、衰微の一途をたどる。決定的な打撃を蒙ったのは、応仁元年(1467)の覚王院円海の叛逆であった。円海は細川勝元の縁者で、五流一院のなかにありながら、勝手な振舞が多く一山の者から憎まれていた。そこで円海打倒のため立ちあがった。円海は危険を知って備中国西地阿知(倉敷市西阿知)へ走り、この地に熊野権現を勧請して対抗勢力を集め、細川の兵を借りて児島の新熊野山に乱入し、一山三十有余の伽藍僧坊を一夜のうちに焼き払った。
 それから二十余年後、大願寺住職天誉の発願で再興に着手し、明応元年(1492)以降に本殿・大日堂・三重塔(県指定)・長床などが再建された。熊野神社本殿の一棟(国指定)はこのとき再建した社殿である。しかし後鳥羽院の御廟堂と一切経蔵及び楼井塚の覚仁親王の御廟は再建することができず、戦国末期の天正十年(1582)の備中高松城の水攻めに加勢しなかったので、羽柴秀吉の弾圧をうけて神領を失い、しばらく五流一山は悲境の一途をたどる。

三重塔 宝塔 頼仁親王歌碑

寺宝
・三重塔(県重要文化財) 1820年再建
・宝塔「後鳥羽上皇供養塔」(国指定重要文化財) 1240年建立
・梵鐘(県重要文化財) 室町時代の作

三大行事

・お日待大祭 旧暦正月23日夜
・大峯修業 8月4日、5日
・熊野大権現大祭 10月4日、5日

市川俊介著『岡山の神社仏閣』より