青龍山 地蔵院(倉敷市阿知3-20-17)

本尊 聖観世音菩薩

開基 知空上人

中興開山 天正十三年勢海法印

別当寺院から倉敷に移転し衰運挽回

 JR倉敷駅から南へ真っすぐ美観地区の方向へ進むと、右手に聖観音像が立った三階建ての鉄筋コンクリート造りの寺院・青龍山地蔵院がある。ここは高野山倉敷別院でもあり、衰運挽回し現代にその法燈を伝えている。
 寺伝によると、同寺は昔、倉敷市笹沖の葦高宮の別当・神宮寺の塔頭の一梵刹であったと記されている。元禄の頃までは、「青龍山地蔵院井上寺」と称され、本尊は地蔵菩薩で、脇侍に性善・性悪の両童子を安置。本堂(五間X六間)、客殿(五間X十間)、庫裡(六間X五間)、経蔵(一間半X二間)、山門(一間半X二間)、大師堂(二間半X三間)など諸堂を備えた堂々たる寺院であった。
 天正十三年(1585)、勢海法印は新開地・日吉(現在の倉敷西中学の辺り)に移転し中興開山した。さらに第五世の秀厳法印が貞享年間(1684〜88)に現在地に移転し、現在の寺号を公称した。
 こうした記録は『神遊山古記』にも登場する。「聖武天皇の御宇初めて別当の寺院を居られ、山上に数箇寺有しとぞ、後三条院御宇智空上人此寺に住ひ社法定る。其寺院には神遊山神宮寺、明王院、安楽坊、各智空上人の流れを汲む、天正の頃より諸寺皆山を下りて新開地に移る、遍照院是なり、井上寺は日吉より更に倉敷に移る、地蔵院是なり」とあるように、倉敷の干拓によって移転したことが窺える。
 第九世勝慶(一説には頼乗)の代には、奈良の信貴山朝護孫寺の毘沙門天を迎え、遠近各地から参詣する人が多く、毘沙門信仰を集めた。これを開いた備前藩主・池田継政公は毎月、勝慶を城下に呼び説法を聞き、自作の仏像や什物を寄進。八間四面の本堂をはじめとする伽藍を建立し、寺観を一新したという記録が残されている。
 しかし、明治元年十二月、火災により悉く灰儘に帰し、一時無住の状態まで至った。明治三十年四月、第十七世恵戒は信貴山朝護孫寺の教会出張所を寺内に設け入寺。同四十二年に本堂を再建し、衰運を挽回し、今日に至っている。

年中行事

1月1〜3日 新年祈祷・大般若転読 8月15日 精霊送り
毎月3日 毘沙門天縁日 毎月17日  本尊講

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より