誕生寺(久米郡久米南町里方808)

 国道53号線で弓削をすぎ約2キロメートル、左手に誕生寺が見えてくる。

山門

 誕生寺の名の示すとおり、ここは浄土宗開祖法然上人誕生地(県指定史跡)で、略縁起によれば熊谷次郎真実が法然の弟子となっていたが、師の命により一寺を建立したと記してある。これをそのまま信ずることはできないが、境内にある多数の五輪塔などから、南北朝時代には浄土宗の聖地として尊崇されたことには間違いない。

本堂

 法然は平安末の長承二年(1133)、美作国久米郡稲岡荘(久米南町)に生まれた。父は漆間時国(うるまときくに)で久米郡の押領使(おうりょうし)、母は秦(はた)氏の娘であった。幼名を勢至丸といった。九歳のとき突如として一家離散の悲境にみまわれた。保延七年(1141)、時国は同じ稲岡荘預所(荘官)明石定明の夜襲にあって世を去った。この合戦のとき勢至丸は応戦し、物陰から放った矢が定明の眉間にあたり、定明はこれを恥じて逐電したという。ちなみに、誕生寺川にすむ片目の鮎は定明の化身であるという伝説がある。

大いちょう

 深手を負った戦国の遺言により、武士にならず仏門に志し、おじ観覚の住職する奈義山菩提寺に入った。天養二年(1145)、十三歳の法然は比叡山に登った。そこで地法坊源光、ついで阿闍梨(あじゃり)皇円に学び、その才能は抜群で天台坐主(ざす)への栄光の道をまっすぐに進んでいた。しかし、九安六年(1150)、法然十八歳のとき、感ずるところがあって遁世して念仏聖(ねんぶつひじり)の群れに投じ、黒谷の叡空の室に入った。このころから、彼は源空と名のった。これは源光と叡空から一字ずつもらってつけたもの。

観音堂

 安元元年(1175)四十二歳の春、法然は長い心のさすらいから魂の安らぎを、善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』を読んで得た。そして、「年ごろ習ひたる知恵は、往生のために要も立つべからず。」として専修念仏に帰入した。すなわち、阿弥陀如来に全面に帰依(南無)し、称名念仏をさえ行えば、どのように罪業の深い者でも、いっさい衆生は平等に極楽往生ができるという信仰を得た。法然のこのような浄土宗の開立は、旧仏教から激しい反撃をうけ、いわゆる元久法難、建永法難、死後の嘉禄法難を招いた。そして、八十年の生涯を民衆救済の専修念仏にささげた法然は、建暦二年(1212)大谷山上の禅房で入寂した。

勢至堂

 誕生寺には、法然自刻の御影像がある。父母をまつる勢至堂やうぶ湯の井戸、手植の大いちょうなどがある。その他に、石造宝篋印塔(県指定重文)や石造五輪塔(県指定重文)があり、それぞれ南北朝期や室町初期の逸品である。
 なお、宝物館には多くの法然関係の資料もあり、繍帳阿弥陀三尊来迎図(県指定重文)は、南北朝ごろの作で、繍仏は珍しい。

     市川俊介著『岡山の神社仏閣』より


大仏 宝篋印塔 うぶ湯の井戸