牛頭山 宗林寺(加賀郡吉備中央町下加茂2046)

本尊 

縁起
 加茂川町下加茂に、真言宗牛頭山宗林寺がある。この寺は、寛文の頃の岡山藩の寺社整理のため、一たん廃寺となったが、だん家の熱望により幾多の変遷を経て、約八十年後の宝暦二年(1752)に再興された。庫の経緯が岡山藩の文書『社寺旧記』(岡山大学所蔵池田家文庫)に記されているので概要を記す。
 宗林寺は、もと大谷村元兼(現・加茂川町加茂市場元兼)にあった。廃寺になった時、だん家の人は神道になったようであるが、後に仏道に返って、備中国溝手村(現・総社市南溝手)にある願満寺のだん家となった。これは同じく廃寺となった観音寺(現・加茂川町上加茂に寺の古跡がある)の住持が願満寺へ退転していたからである。

 ところが願満寺は、だん家の村々九か村(加茂市場・大谷・元兼・野原・十力・平岡・上加茂・下加茂・広面)からは約30キロメートルもあって、だん用(だん家の用事)には不便であった。そこでいつの頃からか上加茂観音寺跡に小庵を建て、住持等の休憩所にしてだん用をしていたところ、享保八年「他領の坊主指置き候所不届に付」として、藩よりとがめられた。その後住持は元通り願満寺から通いでだん用を勤めていた。
 そこで九か村の村役人連判の上、延享四年(1747)に、藩へ宗林寺再興を願い出ている。それによると再興への願い出の初めは元文元年(1736)で、その時、再興も可能との話しもあったが、種々の条件がむずかしく実現しなかった。主な条件としては、次の二つがあった。
(一) だん徒は満願寺のだん家を離れる。
(二) 住持となる者は、岡山藩へ移住し、御国帳(宗門改帳)への記入が必要である。
 そのために九か村の村役人は、関係方面と折衝し、ここでやっとつぎのように解決した。
(一) は、満願寺のだん家になった時に交わされていた約束により、銀貫目を支払ってだん家を離れた。
(二) は、満願寺の住持の観音院(当寺四十四才。大谷村元兼の人・伝九郎の忰が、再興宗林寺の組頭の寺、岡山城下真言宗薬師院へ移住した。そして薬師院の引請けによって藩へ届け出、御国帳ができて、宗林寺住持となった。
(一)、(二)のような手続きのためには、宗林寺の本寺の届け出や、証明が必要であった。九か村の村役人は「昔から備中国上林村の国分寺(現・総社市上林)が本寺であり、再興後もそのようにしたい、今回の宗林寺再興についての届け出や、証明をして欲しい。」と、国分寺へ願い出たが、寺には確かな証文がなく関係者は当惑した。また、引請けた薬師院と、本寺国分寺は、領主が別であり、国法が異なるために、手続き進行中、関係者相互疑心暗鬼を生ずる事態もあったようである。しかし後に証文も発見され、御室坊官(京都)からも、国分寺が本寺であることが認められて、届出や証明も進渉した。
 以上のように宗林寺再興への経緯は複雑で、う余曲折があったが宝暦二年(1752)三月に、九か村関係者の並々ならぬ熱意によって、悲願の宗林寺再興が許可された。建立予定地の元兼の宗林寺旧跡は墓所となっていて、手狭で建立が困難であった。そこで新しく寺地を下加茂吉田(現在地)へ求め、宗林寺を建てたいと願い出たのは、宝暦二年九月であった。そしてその年中に、二間半に五間の長屋を建て、住持観音院はだん用をここで勤めた。更に翌三年正月増築を藩に願い出ているが、その際最初の宗林寺(和田)の絵図も添えて出している。