弘法山 開龍寺 (笠岡市白石島855)

本尊 聖観世音菩薩

開基 大同元年弘法大師

大師が開き、神島の奥之院として遍路で賑わう 

 笠岡諸島の小島が浮かぶ瀬戸の海を笠岡住吉港から高速船に揺られておよそ二十五分。古くは平安時代に和歌に詠まれた景観の美を誇る白石島に着く。緑豊かなこの島のほぼ中央に弘法大師ゆかりの弘法山開龍寺がある。
 寺伝によると、大同元年(806)唐の国から帰朝した空海は、瀬戸の海を通り京を目指した。その途中、景勝の白石島に留錫し修行した。その地が同寺の大師堂である。高さ約五メートルのお堂の屋根の上には、幅約五臓、高さ二腕前後の巨岩が顔を出している。ちょうど、石の洞窟の中に、お堂を造った感じで、巨岩の洞窟で修行する大師の姿を祐佛させる。この地で、大師は自分の杖の先をもって一寸八分の尊像を刻み、身代わりとして安置。六十一年に一度ご開扉され、現在も秘仏としてその信仰を伝えている。
 大師堂は現在、笠岡市と陸続きになっているが「神島八十八カ所霊場」の奥之院となっており、大師身代わりの尊像の霊験を証明している。今からおよそ二百五十年前の寛保三年(1743)、笠岡の今田慧弦という人が同寺に参篭。大師の夢告を受け、神島に八十八カ所の霊場を開いた。以来、同寺大師堂を同霊場の奥之院として、年間一万人余りの巡拝者で賑わっている。
 時代が前後するが元暦元年(1184)、源平の水島合戦での戦没者の菩提を弔うため、同寺は「慈眼寺」として大師の霊蹟に一宇を建立された。その後、寛永二年(1625)には備後(広島県東部)の福山城主・水野勝成公が堂宇を再建し祈願所として「開龍寺」と寺号を改めた。大師堂の前にある常夜灯の燈篭は笠岡市指定美術品であるが、寛文十二年(1672)、福山四代城主水野勝慶公が寄進したもので、藩主をはじめ大衆の尊信を一堂に集めていたことを窺わせる。
 瀬戸内海国立公園に指定されている通り、白砂の浜辺に打ち寄せる波の音を耳にしながら、素朴な漁村の間を歩きながら開龍寺の境内に入ると、左手に白いパゴダが目に入る。第十八世の教海住職が昭和四十五年に建立したものである。教海住職は高野山真言宗の開教師として昭和三十八年から四十年までタイに駐在。その時、拝載した仏舎利を奉安したものだが、県一下では唯一の仏舎利塔である。
 このほか、境内には大師ゆかりの「衣掛けの木」や大師の霊力によって動かしたという「市郎兵衛の力石」、「大師の水」などがあり、まさに大師と〃同行二人〃を肌で実感させてくれる聖域である。

年中行事

1月 厄払い 2月3日 節分
3月21日 旧正御影供 6月1日  虫送り
8月13日 精霊迎え法要(仏塔) 8月16日 燈篭流し、旧暦9月日秋の弘法大師法要
11月15日 仏舎利塔開運護摩法要    

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より