蓮向山 恵光院 安養寺 (笠岡市新賀178)

本尊 阿弥陀如来

開基 天平勝宝年間行基菩薩

中興 寛永年間宥範法印

檀信徒の帰依を受け、連綿と受け継ぐ法燈 

 笠岡市から県道笠岡・矢掛線を矢掛に向かって車で約八キロ走ると新賀郵便局がある。その手前を少し東に入ったところに今からおよそ二百十四年前の鐘楼門が建つ蓮向山恵光院安養寺がある。幾度となく栄枯盛衰を繰り返しながらも、地元檀信徒の篤い信仰に護られながら一千年に及ぶ星霜を数え、現代にその法燈を伝えている。
 同寺は寺伝によると、奈良朝時代の天平勝宝年間(749−756)、行基菩薩によって開基されたのが始まりとされている。また、一説によると、平安時代の終わり頃、新賀の地に神東山迫之坊、伽楞院、明殿寺という寺院が建てられ、これが安養寺の前身であるという記録もある。しかし、この寺院は南北朝の戦乱で焼失し、不詳である。
 その後、室町時代の応永元年(1394)に再建され、「蓮向山無量寿院安養寺」との寺号を公称した。また、一説には「新洞山賀陽寺」と記している書もあるが、ともあれ、この時期に明殿寺を合併し、今曰の安養寺の基盤が築かれたことは確かである。ところが、この寺院も戦国の乱世には勝てず無住状態となり荒廃した。
 現在の伽藍のように中興されるのは、江戸時代初期の寛永元年(1624)から正保四年(1647)にかけてで、宥範法印が地元の庄屋の支援を受けて再興。以来、地元新賀村の檀家の篤い帰依によって堂舎を次々と建立し、境内地も拡張。宥範法印を中興として、現在の住職まで十六代に亘り、連綿としてその法燈を受け継いでいる。
 寺号が現在の「蓮向山恵光院安養寺」となったのは延宝元年(1673)。寺域の整備に伴い檀家も新賀村から関戸、尾坂の地域まで広がり、現在ではニヵ村にまたがり地域の人々の旦那寺として尊信を集めている。
 また現在の伽藍のうち、本堂と客殿、庫裡は宝永三年(1706)の建立で、観音堂はこれより古い元禄九年(1697)となっている。

年中行事

2月15日 常楽会 4月8日 花まつり
8月16日 施餓鬼供養と法話 毎月17日  観音講
毎月21日 写経会    

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より