浄瑠璃山 持宝院 (笠岡市走出1304)

本尊 薬師如来

開基 天長六年 壹演和尚

中興 漢文十二年

〃走出の薬師さん〃として広く信仰集める

 〃走出のお薬師さん〃と呼ばれ、古来より病気、殊に眼病に霊験があるとして備中・備後方面に広く信仰を集めてきたのが笠岡市走出の浄瑠璃山持宝院である。山陽自動車道の笠岡インターから国道 号に合流する県道笠岡・矢掛線を矢掛方面へ向かって走ると、北川走出の山の中腹に持 宝院がある。かって一山十二坊を数えた信仰の山で、往時の伽藍を見ることは出来ないが、文化財の宝庫ともいえる同院の伽藍からその伝統を窺い知ることができる。
 同院は平安時代前期の天長六年(829)、壹演(または一圓)和尚が開基。今も当時の布目瓦が境内から出土し、往古を偲ばせる。壱演和尚は備中国司大中臣治知麿の子で『元亨釈書』にその伝がある。平安・鎌倉・室町時代には「薬王寺延福寺(または圓福寺とを中心に一山十二坊を数え、隆盛を極めた。
 しかし、江戸時代初期になると、この延福寺は廃絶。その跡へ、現在の井原市上出部にあった持宝院を移転し、寛文十二年(1672)に中興され、江戸中期の享保年間(1716−36)に現在の寺基が整った。以来、この地方の中本寺(備中七本寺の一つ)として、四十五の末寺の僧侶育成修行の寺院として、昭和初期まで備中路における重要な寺院としてその法統を受け継いできた。特に、鎌倉期作といわれる本尊・薬師如来は、中国地方における三薬師の一つに数えられ霊験あらたかで、旧山陽道街道筋にあったことから、備中・備後地方の篤い信仰を集め、現在に至っている。
 ところで、同院がこうした歴史と伝統を秘めていることを証明するのが同院所蔵の宝物である。薬師本堂、大師堂、客殿・庫裡は明治から昭和初期にかけての建造だが、鐘楼堂は享保十八年(1733)、仏殿は享保年間の建造である。
 梵鐘と両界曼茶羅図は共に県の重文で、聖観音菩薩像図と弘法大師像図・高野山四社明神像図は市の重文の指定を受けており、同院の寺宝のみならず、貴重な文化財としても保存されている。
 特に、梵鐘は総高百二十センチ、口径七十一・六センチ、重量三百七十五キロで、建長三年(1251)鋳造の青銅製。県下では現存最古の梵鐘である。同院の詳しい歴史と文化財について知るには「持宝院の歴史と文化財」の書がある。
8月第4土曜日縁日祭 12月31日除夜の鐘

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より