光明山 西明院(笠岡市笠岡4013−5)

本尊 阿弥陀如来

中興 江戸中期

昭和五十八年移転新築の大きな伽藍

 JR山陽本線笠岡駅から県道井原笠岡線を北に約二キロ。東側の山手、笠岡市立西中学校の隣に、西明院がある。西明院の本尊は、四十八の誓願を持ってすべての衆生を済度するといわれる阿弥陀如来である。
 昭和五十八年まで西明院は、駅前の仁王堂町に位置していたが、駅前土地区画整備事業に伴い、現在の場所に移転した。
 西明院の創建は不祥とされているが、その創建は古く、西山の麓(現在の正寿場町)に在ったと伝えられている。その後、江戸時代中期に、遍照寺の塔頭寺院として、同寺の西側に移転し堂宇を構えている。
 そして、遍照寺とともに門前町笠岡の発展と、仏教興隆に寄与してきた。ちなみに、遍照寺を中心として南に置かれていたのが南昌院、北に置かれていたのが吉祥院、そして東側に置かれていたのが観照院であった。何れも山号は、光明山。西明院も含めてこの四ヵ寺は元弘年間(1331−34)に当時の笠岡城主陶山氏が城下の中心地に遍照寺を置き、門前町としての発展を計ろうと計画したのに伴い、近くに移転してきたり、新たに創建されている。また、この四ヵ寺以外にも近くにあった寺院が塔頭寺院や末寺となっている。駅前土地区画整備事業では、まず、昭和五十一年に吉祥院が同市東部に移転。続いて同五十二年に遍照寺が同市西の浜に移転。続いて、昭和五十八年に西明院、南昌院の順番で郊外に移転している。
 観照院だけは、区画整備の対象地区からはずれ、現在も駅前仁王堂町に残り、同じく残されている遍照寺の多宝塔とともに当時の門前の様子を今に伝えている。
 笠岡の市街地から東へ約二キロ離れた富岡にある第六十九番月性庵を開いた月性尼は、慶長十一年(1606)の遍照寺の多宝塔相輪上築の曰に西明院で剃髪し、月性尼となっている。月性尼は豊臣方の武将木村長門守重成の生母であり、重成は大坂の陣が起きることを案じて、家臣の里である笠岡の地に母・月性尼を移住させている。
 西明院には、平安期の作である弘法大師御影や、江戸時代初期の作である五百羅漢図などの貴重な寺宝が伝えられている。

年中行事

正月 修正会 8月21日 春彼岸会
8月16日 施餓鬼会 9月21日 秋彼岸会

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より