光明山 遍照寺 (笠岡市笠岡5930)

本尊 五大明王

開基 白鳳時代

門前町の中心として栄える

  岡山県の西南端にあり西は広島県に接している笠岡市の海辺の西の浜に光明山遍照寺がある。同等は鎌倉から南北朝時代にかけて、この地方を支配していた豪族・陶山氏が笠岡に城下町を築くに当たり、笠岡市の北の村にあった司寺を現在の仁王堂町に移転し門前町として発展を図ったとされる由緒ある寺院である。昭和五十二年都市計両により仁王堂町から現在地に移転したが、国指定重文の多宝塔はかつての境内地に残され、その歴史をとどめている。
 千五百五十坪を超える広大な境内地に本堂、客殿、庫裡仁王門、鐘楼などが端正に甍を垂れる遍照寺だが、開基は不詳である。貞享三年(1686)に当時の住職である秀遍法印が記した縁起によると、白鳳期(七世紀後半から八世紀初頭)に一」の国の大守笠臣の氏寺として北方約十キロの吉田村(現笠岡市)に創建されたと伝えている。元弘年間(1331ー34)笠臣の遠裔・陶山藤三義高が笠岡に城下町を築くに当たり、この寺を町の中央に移転し門前町として発展を図ったという。
 当時は山内に五ヵ寺の塔頭、二十四力寺の末寺を数え、嵯峨・大覚寺派の中本寺としてその勢力を誇っていた。また応永十九年(1412)には、当時の衆僧らが京都・北野天満宮に「切経」(国重文)を奉納するなど、都との交流があったことを伝えている。
氷享年間(1429−41)には寺領百五十貫が寄せられ伽藍の一大修復も行なわれ、慶長九年(1604)に備中代官・小堀政次が寺領として三十石を寄進するなど相応の寺格を有していたことが窺える。
 ところで、旧寺地に残っている国の重文の多宝塔は近世初期の仏塔。方三間、本瓦葺きの二層塔婆で慶長十一年(1606)の建立。県下に所在する多宝塔としては最古の建造物で、西日本全体でも桃山時代の仏塔の遺存例が少なく貴重な存在である。
 一方、県指定の重文となっている梵鐘は総高九十一センチ、口径五十五センチ、重さ百六十九キロの鋳青銅製で室町時代鋳造の和鐘。銘によると永享四年(1432)の鋳造となっている。この他、同寺には鎌倉時代作の「弘法大師画像」一幅(東寺伝来)や徳川家康公の木像などが残されており、笠岡地方の歴史と文化を知る上で貴重な存在の寺院となっている。

年中行事

12月 除夜の鐘

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より