宝珠山 光明院 (笠岡市金浦西町1015)

本尊 大日如来

開基 慶安二年理休法尼

開山 大正九年藤原良道

明治まで寺子屋として親しまれる

 JR笠岡駅から国道2号線に沿い西へ約一・五キロ程行くと西浜と呼ばれている地区が広がる。国道2号線を旧国道にそれてさらに進むと笠岡湾にそそぐ吉田川に架かる千歳橋に差し掛かる。その橋のたもとに宝珠山光明院がある。境内南側には山陽本線が走っていて、時折通過する電車の音が逆に静けさを強調する。
 光明院は大正九年まで遍照庵と呼ばれていた。慶安二年(1649)に福山城主水野勝成公の命を受けた理休法尼によって建立されている。勝成公は若い頃、備後、備中を約九年間流浪したと伝えられるが、ここ西浜で過ごしたこともある。西浜の漁師たちと仲良くやっていたという。また、漁師たちが読み書きや算盤ができず、西浜に学問所がなかったことも知っていた。後に遍照庵を創建きせ寺小屋を開かせたのもその時の思いがあってのことだろう。
 勝成公は寛永十五年から七十四歳の老体をおして天草に〃キリシタン征伐〃に出陣した。この戦いを境に、正保元年(1644)に出家し「宋休」を名乗っている。その後、勝成公は笠岡湾の干拓も含め領地の農業振興などに力を注いでいる。
 山上住職は、「宋休」と「理休」の名前から二人は師弟関係だったのではと推測している。また、当時は理休法尼のように読み書きのできる女性は当時珍しかったようだ。理休法尼以後尼僧住職が三代続き、地域の学問振興の拠点として明治まで寺小屋が続けられた。
 大正九年になると笠岡市有田の教積院から遍照庵にきた藤原良道第十世住職が遍照庵を改め光明院とした。現在の建物は、文政十年(1827)に塚本良田住職によって建てられている。
 最近では平成五年暮れに、本堂横に護摩堂が新築されている。
 光明院には百年前に笠岡遍照寺から譲り受けたといわれる三メートル四方の涅槃図が伝えられており、毎年旧暦の二月十五日に行なわれる涅槃會で公開されている。また、高野山第四百三十三世大圓・検校法印の水墨図「白蛇」の他二、三点が残されている。さらに光明院は西浜八十八霊場の一番札所でもあり、境内には罪を消してくれるという高王百衣観音もある。かつて大正時代までは、光明院の境内を出た辺りの船着き場から金比羅行きの船が出ていた。
 平成六年から宗教、宗旨、宗派を越えて、加持祈祷、先祖・水子供養を始めるなど教化活動を進めている。

年中行事

旧暦2月15日 涅槃図公開 3月・9月 彼岸會法要(彼岸の最後の日に信徒慰霊法會
8月 盆行 年休おがみ  

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より