浄瑠璃山 明王院 (笠岡市走出1307)

本尊 不聖不動明王

開基 承和二年壱演大和尚

開山 天平年間

県下初の民衆救療施設を開設

 笠岡市から県道笠岡・矢掛線を矢掛方面に向かって走ると、旧山陽道沿いにかつては山内十二坊を数えた標高一七五メートルの「薬師如来浄瑠璃山」がある。明王院は、この山の中腹にあり、参道石段下には、岡山県下最初の庶民救療事業である無料眼科診療所だった「悲眼院」もあり、歴史と伝統に裏付けられた民衆教化実践の寺として現代にその法灯を受け継いでいる。
 同寺の開基は壱漬大和尚。姓は大中臣正棟で、父親は従五位下備中守刺司(長官)治知麻呂で、和気清麻呂の曾孫に当たる。南都・薬師寺の戒明和尚を師として出家。承和二年(835)、大戒を受け、これを以て「浄瑠璃山」を開基。白山権現から薬師如来像を受け開山したと伝えられ、鎌倉期の作で、中国地方三薬師の一つに数えられている。また、壱演和尚は常に金剛般若経を持誦していたとも伝えられている。
 往古、浄瑠璃山内には薬王寺、円福寺、碇光坊、西林坊、金剛坊、西寺、辻の坊、畝之坊、奥之坊、里之坊、中之坊、遍照坊の十二坊があり、碇光坊が現在の明王院に当たる。
 このうち、金剛坊、遍照坊、西寺、辻の坊は大峰山系の修験の流れを汲む山伏の寺であったらしく、旧参道に「修験念願碑」が残されており、鎮守が権現であることから、権現信仰と密教の習合が行なわれたものと思われる。
 ところが、この浄瑠璃山一帯は南北朝の動乱の時代に、足利尊氏と甥の直冬の争いに端を発する「円福寺合戦」の戦場となった場所である。九州に逃れた直冬の挙兵を知った尊氏は、岩松禅師こと僧・頼宥を備後へ下向きせ鎮圧に備えた。この頼宥が本陣を構えた地が浄瑠璃山であり、攻防が繰り返された。この戦いによって、円福寺は天平六年(1351)に焼失。寛文十二年(1672)に持宝院となるがこの間、碇光坊が円福寺を兼務している。
 江戸時代に入ると、寺檀制度の確立により薬王寺、持宝院、碇光坊、西林坊だけが残り、他の寺は廃絶された。明和二年(1765)には、金剛坊の本堂を碇光坊に移築し、本尊が不動明王であったことから「明王院」と改め、現在に至っている。 特筆されるのは、現在の高橋住職の祖父に当たる高橋慈本住職が大正三年、周辺の医師や真言宗寺院に呼びかけて、岡山県下最初の庶民救療事業である無料眼科診療所「悲眼院」を創設した。現在は児童福祉施設となっているが、〃真言王国・備中〃における真言僧の社会活動として高く評価されている。

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より