金剛寺 (笠岡市絵師521)

本尊 虚空蔵菩薩

代々、尼僧によって護られた虚空蔵信仰 

 国道2号線を笠岡市街から倉敷方面に向かい、神島方面へ分かれる交差点を少し過ぎると、右手にワコー電機の社屋が見える。ちょうどその手前に橋が架かつており、手前の信号を左折し、五○○メートルぐらい進むと、山裾に浄水場が見える。金剛寺はその東側の山の中腹に座している。
 同寺は現在、長法寺の圓覚亮住職の兼務で、薬師堂と民家のような本堂が残されている。歴史や由緒は不明で、伽藍の裏山に歴代住職の十二余りの墓碑が立っており、信仰の歴史を物語っている。
 すでに苔蒸した墓碑からは正確には読み取れないが、没年順に整理すると、一番古いのが宝暦八年(2758)の妙寶、次いで文化七年の法順尼、文政十一年(1827)の慈忍尼、天保四年(1833)の智浄、嘉永五年(1852)の智鏡尼、明治四年(1872)の観蓮尼、明治十九年の不染尼、明治三十一年(1898)の瑞念尼、昭和二十九年(1954)の瑞生尼となる。この他に没年が読み取れない歴代に「真眼本照沙彌尼」「律師瑞雄自性尼」の墓碑が建立されている。
 この墓碑から推測すると、不染尼の墓碑に「当庵四世」と彫り込まれていることから、金剛寺は当初、庵寺であり、代々尼僧が住していたことが窺える。また、一番古い墓碑から江戸中期にはその存在が確認される。およそ二百四十年間の間、代々尼僧によってその法燈を受け継いでいたことを偲ばせる。
 境内には八畳の問に本尊を安置した本堂のほか、薬師堂も建っている。また、昭和十年五月、瑞生尼の代に建立された弘法大師御入定一千百年御遠忌の石塔も建っており、当時の隆盛ぶりを窺わせる。
 また、境内に第十五番と彫り込まれた石仏があり、周辺の墓地の入り口には西国三十三観音霊場第二十四番中山寺の石仏を安置した小さなお堂があることから、同寺を中心に西国霊場を勧請し、観音信仰の聖地として地元に開放されていたことも想像できる。
 本尊は虚空蔵菩薩。同寺がある山の向かいの山は虚空蔵山とよばれており、この地帯一帯に虚空蔵信仰が芽生えていたことも感じさせる。虚空蔵菩薩は一般的に五智宝冠をいただき、右手に智慧の宝剣、左手に福徳の蓮華と如意宝珠を持っている。これは福と智の二蔵が無量で、大空にも等しく広大無辺であることを意味しており、古くから信仰されている。

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より