小田原 教積院 (笠岡市有田1777)
本尊 聖観世音菩薩
開基 元享三年勢真法印
武将・陶山氏の帰依によって伽藍建立
岡山県と広島県の県境近くの標高約一○○メートルの山の山頂に小田原山教積院がある。岡山県側からだと笠岡市から井原市へ抜ける県道を、広島県側からだと国道2号の笠岡市用之江交差点を、共に北へ向かって入ると、大きな看板が立っているのですぐわかる。陶山郵便局の上手から池に沿って山道を登ると、山頂付近に静かな佇まいの伽藍が甍を垂れている。昭和六十年三月に開創された瀬戸内三十三観音霊場の第二十番札所で、巡拝者が絶えない。
同院は元亨三年(1323)勢真法印によって創建された。勢真法印については伝承がなく不詳だが、山号の小田原山は、高野山の小田原谷に通ずるところがあり、勢真法印は祖風宣揚のため全国を行脚した高野聖の一人とも考えられ、この地に至って勢力を誇っていた武将・陶山氏の帰依を得て一宇を草創した。
笠岡から同院一帯は中世、陶山庄とも呼ばれ、笠岡に城を構えていた武将・陶山一族が勢力を誇っていた。有田地区には陶山氏と備後の南朝方、桜山茲俊が戦った古戦場や、陶山義高公を祀る陶山神社などもある。当時の教積院は、現在地より二○○メートルほど西の備中と備後を結ぶ間道の要衡にあり、陶山氏が備後を睨んで砦の性格を持たせたもので あるともいわれている。
また、最近になって判明したことだが、境内の墓所には羽柴秀吉の備中高松城水攻めのとき、毛利方の武将であった高田豊後守の墓がある。高松城を守りきれなかった責任をとって、教積院で自刀。夫婦の戒名を刻んだ自然石がその哀話を伝えている。
しかし、この伽藍は約三百年前に火災で焼失し、現在地へ移転。さらに、昭和四十七年に再び火災に遭い山門と鐘楼堂を残して焼失した。第二十五世の法統を受け継いでいる現在の吉井住職は、二年後に鉄筋コンクリート造りの本堂、客殿、庫裡復興を発願し、僧俗一体となって見事に悲願を成就した。
本堂の裏手には、曰清戦争の戦没者を慰霊するために勧請された西国三十三観音霊場の石仏群と、大原焼の高さ約三・五メートルの五重塔があり、静かな環境の中で追悼の遍路ができる。
ところで、吉井住職は昭和三十九年から連続して八期にわたって笠岡市の市議会議員を務めている。議長も経験し、地域社会に貢献している。その吉井住職が社会福祉事業の一貫として招致した精薄者厚生施設「ときわ学園」が近くにあり、大晦日には園生と共に除夜の鐘をつき、年越しそばを接待。〃福祉の鐘〃が十方に響流する。
年中行事
旧2月15日 | 涅槃会(結衆寺院八ヵ寺の輪番制) | 3月 | 春彼岸会 |
8月 | 盂蘭盆会 | 9月 | 秋彼岸会 |
12月 | 除夜の鐘 |
『高野山真言宗備中寺院めぐり』より