高山寺(井原市高屋町1801)

古刹高山寺は井原市の西南、,経ケ丸山の中腹にある。
 当寺は真言宗大覚寺派の別格本山で、天平勝宝年中(749〜756)行基が開創したと伝えられる。当初七堂伽藍が完備していたが、塔頭の七坊は本坊と法泉坊、中光坊、東、南、西、北の各光坊。しかし昔のまま姿をとどめているのは本坊の高山寺だけ。末寺の法泉院、東光寺はいずれも山下に移され、山内には現在もその旧跡が見られる。
 当山は初め天台宗に属していたが、法華経の「日出先照高山」の経文にちなんで、寺号を高山寺といい、この経文が大乗部の経典である点から大乗山という。また、寺のある”経ケ丸”山は、当山の開基のとき、地鎮祭に法華経七軸を地中に納めたところから名づけられたといわれる。
 弘仁年間(810〜823)名僧空海が唐より帰朝して後真言宗に転じた。中世に至って、備後神辺城主杉原播磨守盛重は当山の堂塔を再興した。中興の祖大僧都法印空円もまた寺門を再建したので、寺運は隆昌の道をたどっていった。
 ところが江戸末期の天保八年(1837)火災にあい、境内に経蔵と仁王門を残し、他の堂宇は焼失した。慶応年中(1865〜1867)僧智洪が現在の僧坊を新築し、明治初年頃、高野山から法祥を迎えた。法祥は当山再興の志をたて、本堂及び客殿を新築した。さらに数体の霊尊像を招請した。本尊愛染明王、木造地蔵菩薩立像(国指定)、不動明王、木造地蔵十一面観音立像(県指定)阿弥陀如来などが入山した。その後、仁王門の改築、霊宝館、茶寮などが新築された。
 本尊愛染明王は空海作で高野山にあったものといわれ、地蔵菩薩は智証の作といわれ室町時代の優秀作。もと河内国交野郡星田村愛染寺蔵であった。特記すべきことは昭和二十九年解体修理のとき、胸部から五穀、衣料、胴部から近畿、中四国の大地震の状況(宝永四年=1707)を付記した慰霊文と、富士山中腹の宝永山噴火の状況をくわしく記した銘文が発見された。
 十一面観音は藤原中期の作で、一木造。
 さらに、梵鐘(県指定)があり、銘「備中国高野郷大高山寺洪鐘一口、願主阿闍梨宥栄、勧進聖果球A沙弥道仙、大工藤原家長、小工藤原家永、康正二年歳次丙子十月十九日」がある。この製作が康正二年(1456)とあるから室町末期である。

市川俊介著『岡山の神社仏閣』より