平医山 寶蔵院 (井原市東江原町2120)

本尊 愛染明王

創建 天平九年

中興 天文十年喜範法印

〃モンテンルバの父〃と敬慕された僧忍

 矢掛町と井原市の間を東西に流れる小田川沿いの国道号平井口バス停の北側の山裾に本堂、大師堂、客殿などの甍を垂れているのが平医山寶蔵院である。寶蔵院はもと、頂見寺の一坊で「下の坊」と称していた。戦国時代の天文の兵火によって焼失するが、同十年(1541)に喜範法印によって再建され、江戸中期の天明八年(1788)に観明法師が堂宇を改築している。
 昭和四年に住職を拝命し晋山した僧忍住職は、平井山東泉院の跡地に移転し同三十四年に増築。四十五年に頂見山文殊院の本堂を移転、改築して現在の伽藍を整えている。 この僧忍大僧正は真庭郡落合町の極楽寺に生まれ、十四歳の時に同町の木山寺で剃髪。初名は秀忍と称したが、醍醐寺、同仁和寺、高野山大師教会本部、高野山布教師、金剛峯寺などで活躍し、昭和二十年にいったん自坊・寶蔵院に帰坊した。
 昭和二十二年から高野山東京別院副主監として復興に尽力。二年後には連合軍マッカーサー総司令官の命を受けて、フィリピンの国際軍事裁判教講師として単身で赴任。モンテンルパ刑務所で日本人戦争受刑者と起居を共にし、四年間に亘って死刑、有期・無期刑囚と労苦を分かちた。
 昭和二十六年、戦犯十四人の死刑執行にも立ち会い、残る戦犯囚の助命のための釈放運動を起こした。この間、ローマ法王、フィリピンのキリノ大統領らに嘆願し、昭和二十七年春モンテンルパの戦犯囚徒全員釈放の成果を挙げ、翌年七月二十二日、百八人全員と共に帰国した。さらに、帰国後も全国各地を巡講し、遺族の弔問をはじめ巣鴨教誨師などを務め、外務、厚生、法務の各大臣からの感謝状を受けている。
 昭和三十一年にはアメリカに渡り、巡講しながら米国関係戦争受刑者釈放を嘆願し成功している。その献身と苦闘ぶりは広く感銘を呼び、今なお〃モンテンルパの父〃として敬慕されている。その後、 高野大僧正に昇補きれ、勲三等を叙勲、岡山県三木記念賞なども受賞し、昭和五十二年五月に遷化。正五位に叙せられた。
 境内にはこの僧忍大僧正の胸像が建っており、同大僧正によって移築された本堂には本尊の愛染明王、脇士の不動明王・地蔵菩薩と共に、各檀家の霊位、太平洋戦争犠牲軍人や朝鮮出身戦没軍人モ ンテンルパ刑難諸霊を祀ってある。また、僧忍大僧正は書画に秀でており、『モンテンルパ画帖」は絶品。この他、寺宝に井原市出身の木彫家・平櫛田中翁作で日本に三体しかない釈迦誕生仏や橋本春陵筆の不動明王軸がある。

年中行事

3月 彼岸会 4月5日 土砂加持法会(檀家所霊位供養)
8月 お盆供 9月 彼岸会
12月 除夜いお焚上げ    

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より