示現山普門院 千光寺(都窪郡早島町早島1179)

本尊 聖観世音菩薩

戦国武将・竹井将監の菩提寺

 岡山と高松を結ぶJR瀬戸線の早島駅を降りると、北にかつて早島城のあったという城山が見える。そこへ向かって十五分程歩くと示現山普門院千光寺がある。山門をくぐり境内に入ると右手に五輪大卒塔婆がそびえ立っている。これは、第九世増忍住職が瀬戸内海を挟んだ善通寺と千光寺に同じものを建立したもので、現在も両方に残っている。
 千光寺の本尊は聖観世音菩薩立像。慈覚大師の作と伝えられている。創建当時千光寺は早島の市街を北に約十余町距る奥坂というところにあったが、寛永八年(1631)に僧泉法印が早島城趾に移し仏教興隆と鎮護国家を願う道場とした。
 千光寺は毛利方の戦国武将だった竹井将監公の菩提寺で、城山には将監公の供養塔がある。当時、中国地方平定を目指す織田信長は、羽柴秀吉に毛利攻めを命じ備中高松で毛利軍と対峙。戦国合戦史上有名な高松城水攻めを行った。毛利方は、織田軍の西進に備え、高松城を中心に日幡、冠山など六つの枝城に兵を集め防衛線とした。そのため秀吉は高松城攻略の前に枝城を落とす戦術を取り、天正十年(1582)三月二十日、冠山城に山方から攻め掛かった。
 この冠山を守っていたのが早島城城主だった将監公だった。将監公は鉄砲によって秀吉軍に大きな被害を与えるなど応戦。そこで、秀吉は伊賀者を城内に忍び込ませ、城内に火をかけさせた。将監公は大奮戦し敵兵を防ぎ防戦したが、同年三月二十四日には豊臣秀吉の武将・加藤清正と一騎打ちをし、冠山城で戦死している。
 後日、秀吉は、天下無双の豪傑・加藤清正と真っ向から渡り合い一歩も引けをとらなかった将監公を敵ながらあっぱれな武人として称え、供養のため金子五十両を与え、吉備津・宮内の賀夜坊で供養したと伝えられる。千光寺にある供養塔はこの歴史を今に伝える重要なものとして早島町の重要文化財に指定されている。
 千光寺の裏山の早島公園は、第十七世義範住職が城山稲荷前の竹薮を開墾して造園したもので、当時は城山公園として親しまれていた。現在は、桜の名所早島公園として知られ、春になると多くの花見客で賑わう。また、作家の遠藤周作氏の母堂は竹井将監の遠裔にあたることから、同氏が千光寺を訪れることもある。

年中行事

一月三日 大護摩供
一月第二日曜日 大般若経転読お日待ち法要
四月 旧正御影供法要
五月(旧四月八日) 花まつり
八月 地蔵盆

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より