長福山 久成寺(赤磐市草生751)

本尊 十界本尊

縁起
 明応の頃木知ケ原に柏谷市右衛門、新兵衛と云う兄弟ありて、法華宗の信者となり。
 金銀諸色を所持し、溝尻の上、川端古屋敷といふ所に住居す。此頃は天台、真言、一向の諸宗あり。此のもの内心は当所を法華宗に致し度思い、弟新兵衛の京都に住居しけるを語らひ、日扇上人と云ふ高徳の大導師を我家に招き、七日の間説法致さるに、随喜の涙を流し、一同へ改宗の義をすすむ。その時市右衛門故、いなむものもなく、法華宗門となり、桂昌寺と云う寺を建て、日扇上人を開山とす。
 此の市右衛門壇頭となり建立の世話を致し、諸人改宗は明応五年五月八日也。
 此日扇上人は泉州堺の日根氏にして在住六十五年永禄元年八月十三日遷化九十八才なり。村中改宗は大永五年なり。
 第二世日令上人は泉州日根氏と有り。元亀二年入山、在住四十三年七十三才なり。天正二十年(文禄元年)九月二日の洪水にて、在所の人多く寺へ集り居たりしが、日令師を始め二十五人溺死なり。諸堂も流れ、此所は不吉なりとて、壇中相談し、小高き所へ寺を移し度思ひ、所々見立けるに、今の古寺屋敷を見立て、此所は峪の吉右衛門所持の場所故、同人寄進しくれければ、此所に一宇を建て、寺号を改め、長久山久成寺と号す。日令上人の弟子日還と言ふ人来り、寺務をいたす。時に上総国土気の出身成就坊と言ふ人来り、寺務を相助く。然るに両人共所行よろしからず、日還師は村人のために変死し、成就坊は赤坂郡草生村に小庵有りしに移りければ、当時無住となり、寺務差支けるによって壇中相談の上、後任を相尋ねけるに、日信上人と云ふ大導師を尋ね出し住職とす。

 先に云ふ成就坊は草生村の明石庵に移り、当所の山号を持参して、長久山久成寺と改め、後成就院日祐上人となり当寺の開基なり。元和五年三月十三日入寂。
 先に謂ふ明石庵は、和気郡天神山城主浦上宗景公の一子与次郎宗辰公上道郡沼城御見廻の砌、宇喜多直家の家臣明石慶庵といふ医師ありて、毒薬を調合して、与次郎殿を毒殺す。年二十九才なり。即遺骸を収めて天神山に帰り、田土村に葬る。今の人お多仲様と称する者これなり。
 其後慶長五年宇喜多家も滅亡して家臣多く浪人す。明石慶庵も縁りを求めて、草生村に来りて密に住し後庵をしつらへ明石庵と号し読経三味に余生を送りける。
 此庵へ成就坊日祐師が隠棲、後久成寺を創建す。これが久成寺の縁起なり。
 山号長久山を改め、長福山と称す。