笠地山 浄土寺 持教院 (赤磐市西軽部1378)

本尊 阿弥陀如来 薬師如来

縁起

 笠地山浄土寺は、県道岡山・美作線に沿う、西軽部笠口(笠山入口」)より七百メートル急勾配の山道を登った所にある古刹である。途中、県道より約百メートルの所に花崗岩製の門柱が一対あって、「天台宗笠地山山門派浄土寺、昭和十三年」と刻まれている。同所には天保十一年に造営された重層三間二間の仁王門があり、扇垂木が人目を引く。仁王門には寄木造の金剛力士像が安置されている。昭和五十年の仁王門屋根修理の時、「天保六乙未歳四月吉日、寄進主西軽部村、二箇 国富要蔵」の銘がある鬼瓦が発見された。
 縁起によると、笠地山浄土寺は孝謙天皇の代、天平勝宝年中に報恩大師が勅命を峯じ、阿弥陀如来の四十八の願いになぞらえて備前四十八か寺を建立したが、その五番目の寺であるという。

 本尊は阿弥陀如来と薬師如来のニ体である。当初は報恩大師の千手観音であったが、世の移り変わりと共に寺は荒れ果て、千手観音もいつのころか行方不明になったという。その後泰平の時代になり復興の機運がみなぎり、本尊を探し求めたが、たまたま、行基菩薩の作である阿弥陀如来像を得、本堂に安置して本尊とした。それから八十年後、本堂から乾(北西)の方向にある岩の上ニ紫の雲がたなびき、空から光りまばゆい仏像が降りられた。これを牛飼の子供たちが見て、あまりの不思議さに驚き、その由を寺僧に告げると寺僧も大いに驚き、近づいて拝むと薬師如来の像であった。そして本堂に安置し御本尊にしたと伝えられている。したがって現在は本尊が二体ある。本堂は専ら祈願、修行、誦経の道場とし、廻向供養は客殿にある阿弥陀如来の内仏宝前で行う事を常例としている。
 現在、浄土寺は持教院を残すのみとなっているが、かつては十二の僧坊と四か寺の末寺を有する大きな寺であった。四か寺とは、西軽部村西方寺、東軽部村本願寺、町苅田村東之坊、神田村金剛坊であるが、現在それらの所在地は不明である。十二の僧坊については文禄五年の記録よると、宝生坊、北之坊、南之坊、観持坊、南泉坊などの名があり、赤磐郡誌には、持教院、円光院、観持坊、養善院の名がある。又、万延元年(1860)の絵図面には慈善院、養善院、円光院などの名が見られる。持教院には江戸時代を通じて藩主池田家より寺領、二十二石一斗を寄進されていた。

 本堂には文明十二年の棟札、寛永二十一年の棟木銘、享和三年の棟瓦銘があるという。
 現在の浄客殿は昭和四十八年に新築されたが、旧浄客殿は建坪八十坪あり、寛永十二年(1635)に建築されたと伝えられる。この建物は一部二階建となっており、寺子屋として使用されていた時代もあった。
 境内には十王堂(えんま堂)と鐘楼がある。十王堂は昭和二十四年に再建されたものである。鐘楼は昭和四十四年に新築されたコンクリート製のもので、鐘の重量は約三百八十キロである。この鐘は天下泰平、万民快楽、檀家円満、交通安全等の祈願をこめて毎朝六時につかれている。 

寺宝・文化財

・仏画
 
恵心僧都の筆と伝えられている。紙本彩色画で、三幅対(弥陀、観音、勢至)になっており、「山越の弥陀」と呼ばれている。
・青銅の鰐口
 本堂正面上部にかかっており、「正保三年施主坂部久兵衛」と銘がある。
・手水鉢
 本堂前にあり、花崗岩製で、「寛政二年歳三月吉日」の銘がある。