菖蒲山 西光寺 随縁院(赤磐市多賀736)

本尊 阿弥陀如来 観音菩薩 大勢至菩薩

縁起

 菖蒲山西光寺は、県道岡山、美作線沿いにある大字多賀字出屋の集落の東、延長六百メートルの山道を登ったところにある。三方を山に囲まれた谷あいにあり、自然の美しい景観にとけこんで建っている。
 この古刹は奈良時代、今から千二百余年前天平勝宝四年孝謙天皇の勅願により、報恩大師が備前の国四十八か寺を建立した一宇である。(のち天台宗山門派となって栄えた)
 当時の縁起によれば、報恩大師が霊場を求めて巡錫され、出屋の尺塔橋にさしかかられた時、北東の山の中腹に金色の雲がたなびき五色の光がさしているのを御覧になられ、不思議に思い、山上にのぼられた。現在の本堂の東に古い沼があるが、その真中の岩の上に天龍が四方極楽教主阿弥陀如来の御木像をお守りしていた。報恩大師をお迎えした天龍は、
  「長い月日貴僧のこられるのを待ち望んでおりました。ここにお守りしている御仏は、末法の世に苦悩する一切の衆生を救い給う尊い仏さまです。早く堂宇を建立して衆生の苦悩を救い給へ」
と言ったかと思うと、天龍は空高く舞い上がりいずこともなく消え去った。大師は直ちに一宇を建立して御仏をお祀りになったという。
 平安末期、浄土信仰が盛んになったころ、西光寺は弥陀の浄土に最も近い場所と信じられ多くの参詣があった伝えられる。
 坂の下より旧山道に沿って大門の地名が残っているが、当時、寺全体を表す大門があり、塔坂の東の山上に三重の塔が建ち、安養院、地蔵院、本覚院、竹の坊などの院坊の堂宇が、楚天山明燈の山上附近まで建ち並んでいた。
 その後時代の変遷で寺運もまた興廃があったが、江戸初期のころ持蓮上人が出て中興の祖となった。現在の伽藍は江戸の初期から中期までに整備されたものである。
 本尊は、行基作と伝えられる阿弥陀如来で、脇仏として観世音菩薩、大勢至菩薩の二分仏を祀っている。三仏とも木造の立像で、それぞれ次のような銘がある。
阿弥陀如来像(高さ 約七十八センチ)
 「生所児島郡下津井塩津氏の奉来光後光台座 元禄八年乙亥九月吉日、同年三月此本堂宇橡裏板瓦葺とし願主当山住持随縁院第四世沙門純海」
観世音菩薩像(高さ 約四十七センチ)
 「信心施主、赤坂郡山之上村為丑歳興惣逆修菖蒲山西光寺、元禄九年子十二月八日 弥陀脇立」
大勢至菩薩像(高さ 約四十七センチ)
 「信心施主、赤坂郡山之上村為辰歳興惣内儀逆修菖蒲山西光寺、元禄九年子十二月八日 弥陀脇立」天平宝字四年(760)開山。建久三年中興開山。
 西光寺の主な建物として、安永三年(1774)建立の本堂(入母屋造)、万治三年(1660)建立の庫裏(箱棟造)、天和三年(1683)三月建立の仁王門(三間一戸八脚門、入母屋造)、明治十四年建立の鐘楼門がある。
 仁王門には室町時代末に作られたと伝えられる仁王像が安置されている。
 本堂に懸けられている直径四十二センチの青銅製鰐口に、次のような銘がある。「備前菖蒲谷西光寺常住大願主浄阿 永和二年八月二十二日 大工吉岡友永」

寺宝・文化財

建物 安永三年(1774)建立の本堂(入母屋造)
万治三年(1660)建立の庫裏(箱棟造)
天和三年(1683)三月建立の仁王門(三間一戸八脚門、入母屋造)
明治十四年建立の鐘楼門
什器 鰐口 永和二年(1377)作
仏画 涅槃像(絹地絹表装) 江戸初期作
大般若経百巻 江戸中期京都公家衆により写経。