歩いてみよう ふる里の地(高尾方面)
高尾方面 → 天城(あまき)往来と高尾山
高尾山の烏帽子天城(あまき)岩の巨岩を眺めながら旅人は天城(あまき)往来を早島、茶屋町、天城(あまき)に行き来した。
この地一帯は、妹尾(瀬尾)兼康や十五人塚など伝説に富むところである。
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高尾方面 |
福田中学校 → @切り通し → A小川の井戸 → B高尾の番神様 → C高尾十五人塚 → D木屋の墓所 → E烏帽子(えぼし)岩 → F天城往来 → G高尾厳島神社 → H甚兵衛井戸 → I伝妹尾兼康館跡 → J高尾貝塚 → 福田中学校
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@切り通し
福田尋常小学校が出来た(明治36年)頃には山田方面の子どもは高尾山の山越えの細い道を通って通学していた。
大正年代になり高尾山を切り通して道をつけ、東西の交通が便利になった。ここを通称切り通しという。岩の脇から泉がふき出ていて、のどをうるおしていた。
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A小川の井戸
高尾山の東側で山の北部にある、通称切り通しの傍らの井戸である。
ここは良質の水がわき出ており、使用戸数は7〜8軒であった。
毎年初夏の頃、使用者らによって井戸かえが行われていた。こうして小さいコミュニティが水を中心として生れていた。
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B高尾の番神様
祭神は三十番神。
三十番神とは最高の教えといわれる法華経とその信者を守護する神で、一日一神それぞれ異なった神が守護に当たり、一月(ひとつき)に30の神々がかわるがわる守護するとされている。
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C高尾十五人塚
元禄8年に建てられた十五人塚は、高尾山東方が海であった頃航海していた舟が暴風雨にあって難破し全員死亡したので、その霊を慰めるため後年海岸に建てられたもの。塚の高さは2.2mである。
高尾の東方一帯が海であった頃はかなりの交通量があったようであるが、この海域が陸地化したのは江戸時代以降である。
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D木屋の墓所
高尾山の麓、竹林の中にあって道路から10数m程入った場所にあるが、はなはだしく荒廃している。吉田氏の子孫が絶えた関係である。
吉田氏は古新田などを開発した大庄屋で、屋号を木屋といった。初代の四郎右衛門が妹尾から引舟に移住して、古新田の開発に取り組み、二代甚次郎がその意思を継いで古新田村を開発し、三代三郎左衛門は金谷(かながい)、水江、烏帽子形の新田を開発した。
以来子孫も開発事業に力を入れ庄屋などをつとめ、多くの農作業従事者を雇い米作に力を注いだ。
吉田氏は引舟に居を構えたが、引舟は低湿地であるため墓所を山麗に求めた。代々法華経(ほけきょう)の信者であったので墓石にも日蓮宗の法号が記(しる)されている。
二代甚次郎の弟が妙泉寺(日蓮宗)の開基であるということもあって、干拓地には日蓮宗徒が多かった。
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E烏帽子(えぼし)岩
烏帽子岩の名称は岩そのものが見ようによって烏帽子の形をしているという意味あいで誰いうとなくこの名がついたようである。
烏帽子岩の標高は30m余りで、基盤の面積が10アール近い花崗岩を台にして今にも滑り落ちそうに乗りかかった形をしていた。岩の烏帽子は、長さ17〜8m、幅およそ6m、高さ約6mにも及ぶ巨岩であった。「しゃんと位を高尾にかまえ、操かわらぬ烏帽子岩」と詠んだ人がいた。
豊臣秀吉が大阪城を築城する際は台石の一部をはいで大阪まで船で持ち帰ったといわれている。
烏帽子岩は戦後落とされたため今は無い。
山頂にはお不動様が祀られている。
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高尾山麓を通る天城往来、厳島神社の麓 |
F天城(あまき)往来
天城の池田候が岡山天城間を往来したことからこう呼ばれるようになった。
この道は妹尾と福田の境界をたどりながら金場(かねば)から二つに分かれ、高尾の妹尾兼康の別宅跡の脇を過ぎ、高尾山の麓すなわち往時の海岸線を経て引舟に通じる道と、一方は金場乗越を経て本村に入って高尾に通じる道である。
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G高尾厳島神社
山田のうち高尾及び大倉の氏神である。祭神は市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)(厳島大明神)。
寿永年間に妹尾太郎兼康が領内鎮守としてその屋敷に社殿を造営し、安芸の厳島神社を分祀したと伝えられている。向って右側は日蓮宗徒、左側は真言宗徒が祀る。厳島神社は左側を登る。
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H甚兵衛井戸
厳島神社の麓にあり地形の変換線に当たる所である。井戸の前面は2m下って田になっている。50〜60年前、井戸を掘っていたところ帆柱が出たことからかつては水路だったと思われる。
井戸の傍らには加地九四郎建立による題目碑がある。祖父に当たる甚兵衛は古新田を開発した木屋すなわち吉田一族である。
当時の古新田一帯は湿地で居住には適さなかった。けれどもこの井戸のある所は山を背後にひかえ水を得易いうえに乾燥地でしかも日当たりがよかった。これらの事情から加地甚兵衛はこの井戸を中心に居を構えていた。
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I伝妹尾兼康館跡
妹尾太郎兼康は平氏の厚い信任を得ていた。板倉に山城を築き、妹尾に平城の須浜城を構え、そして高尾には別邸があったといわれる。
備中誌は十二ヶ郷用水路が兼康によって開かれたと伝えているが、このことも彼が妹尾郷地方の開発領主であったことを推測させる材料である。
寿永2年(1183)兼康は木曽義仲軍に追撃され板倉で討ち死にした。兼康の墓については現在吉備津の鯉山小学校の耕地内にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)がその墓であるといわれているが、詳しいことは明らかではない。
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J高尾貝塚
高尾貝塚は山田の入江の東側に位置している。
ハイガイ、シジミが主に出土した。その他カキをわずかに含んでいる。また、ツボ型、カメ型の土器や石斧などの石器も出土した。
弥生時代前期の土器も出土しているが、この高尾貝塚は弥生時代のものといっても岡山県下で最も古い時代のものとみられる。この貝塚から米が出土したことからここは岡山県では最も早くから米作地とされ、わが国に初めて農耕が伝えられた頃の技術を示す貴重な遺跡として注目されている。