古新田、大福村の百姓一揆

 吉田家文書によれば、領内の人口は5,300人余で、戸数は1,099軒であった。古新田には104軒「、北大福71軒、中、南大福には90軒、妹尾崎村には60軒あったと記録されている。
 領主は領民支配の為代官、郡奉行等任命していたが、一方領民側からも村役人として大庄屋、庄屋(名主)、組頭(年寄)、百姓代(判頭)、保頭などを選任して円滑な上意下達をはかった。
 村役人の職務は宗門改めの調整から、村内山林、原野、河川の利用や管理、農業技術や、農作業の指導にあたる等多岐に渡るが何と言っても最大の任務は収税事務であった。
 「百姓と胡麻の油はしぼるほど出る」とあの手この手で「六公四民」という高率で収税した。定米の外に8.6%の付加税のほか、運上税、万請代という雑税があったので農民の生活はいつも貧しく、ぎりぎりに営まれていた。一たん災害があったら、その惨状は目をおおうばかりであった。「岡山県水害史」によれば、承応2年(1653)から明治4年(1871)迄219年の間に岡山藩内の
風水害は大風、洪水23件、大風1件であった。
 池田光政が「我等一代の大難」となげいた承応3年の大洪水は7月19日から23日まで大豪雨が降りつづいて、156人が流死し牛馬210頭が流され、餓死した者は3,684人にのぼった。
 この様な災害は貧しい農民の生活を一層圧迫し、藩や幕府に対して、不平、不満は触発の状態にあった。先ず農民側は「生活が立ち行かないから何とか考えてほしい」と村役人を通じて要望するが、大抵聞き入れられる事はない。そこで代表者が直接藩や代官に要求書を突きつける事になる「直訴」である。
 妹尾一揆の場合は幕府や他領の領主または代官に直訴する「越訴」を行なった。しかも備前藩や、庭瀬、撫川、早島等の知行所に逃げこんで妹尾領主の悪政に付いて、訴え出た「逃散越訴」と言う方法を取った。
 大坂御番所に提出された歎願書には、妹尾郷を支配していた代官、矢吹、木村が行なった領民への圧政の数々が書き残されている。
 矢吹の若旦那は、飼育している犬に、村人が可愛がっている犬、猫、鶏等殺害させた。
 村祭を楽しんでいる村人に謂れなき因縁を付けて喧嘩口論して怪我をさせた。
 公正であるべき公事、裁判に対して、不正な処置を取った。
 農繁期に多数の農民を私事の為使役した。
 自宅の屋敷の拡張の為、近隣の15軒ばかりを強制して立ち退かせた。
 多数の出店をつくって商売を独占した。
 その他公金の横領や、恵実須講の講金強制等々権力を笠に悪行三味を行なった。それに対して領民の怒りがこの一揆である。
 天保15年8月27日(1844)から始まった一揆は9月21日(或は22日)村祭の午後10時頃、矢吹氏や商売を独占していた18,9軒の金持や、薬屋、酒屋などに押しかけ、打ちこわしを行なった。
 この打ちこわしの関係者の取調べについては、弘化2年2月(1845)倉敷代官所からの手入れがあり参加者は召し捕られ吟味を受け、入牢もしくは宿預けに決定し、弘化3年6月大坂東代官所へ引き渡された。
 一揆に参加した花屋町菊五郎は尋問を受けたのと老衰をはかなんで天保15年11月明星川で投身自殺した。「修羅道へ届け春辺の茶の煙り」村人の追悼句である。