人物伝
1.社会的に活躍した人々
1.日詔上人(1569〜1617) (宗教)
山田1209番地、太田家に生まれる。即ち永禄十二年信長が、上洛した時に生誕している。
字は無問、自證院と号した。
幼より信仰心が厚く、仏教に帰依し、飯高檀林にて、仏教学の研鑽に努めた。蓮成院日尊(本門寺十三世)に師事した。
学風は、不受不施派を継承した。
或る夜、夢の中に現れた老僧と学説をたたかわせた。爾来日詔の起居動作には、不思議な事が起きたと言われている。三十五歳の若年をもって、師日尊の後継者として、本門寺(東京都池上)十四世の法燈を継承した。
慶長十一年に加藤清正が、母の追善を行い、その記念として、祖師堂を寄進した。之は大堂で、大男の清正が、兜をかぶり、騎馬したまま、浜縁を通ることができた、といわれている。清正は大の日蓮宗の信者で、両者の間は、早くから肝胆相照す仲だったといわれている。
また、家康の四男忠告が死去した節、増上寺で、諸宗の僧を集めて法要を行った。日詔は出席したが、主義上、ただ一人布施を拒否した。
慶長十三年岡部の局の祈願が成就した事によって、寺域に五重の塔が建てられた。それは秀忠が健康にして、無事二代将軍を襲職することができたから、その報恩感謝の意味であった。
日詔は、常に行学二道を求法の僧達に説き仏道を修業さした。殊に檀林(現在の学校)を開いて、広く教法を布敷した。
在山十五年 四十五歳で遷化した。
著書多く、中でも、顕性録要文、四経義要文は著名である。
2.広田義弥(1770〜1846)(剣術)
先生備中大福邑人也其先為某 之也臣爾後落魄本民間系缺不詳以至先生先生為人勇悍自幼妙武略及長不改殆慶来報因師事難波兼興之再傅吉田恒行学竹内家剣術苦刻錬鍛遂極奥秘得其印可後又従遠藤右膳受養心流剣傅亦得其印可是以四方靡然游其門者凡百数予之輩末浴其流而辱交誼以故相共謀建碑以表其各 先生姓廣田諱名義彌藤治其通称也
文政六癸未年 門人某等建之
弘化三丙午五月四日 死去 行年七十七才
広田は備中大福村の人。幼いころから勇敢で、武略を好み、剣客として知られていた。難波兼興の流れをくむ吉田恒行に師事し、竹内流の剣術を学び、努力の末奥義を極めた。ついで遠藤右膳に養心流の剣を学び、これも印可を得、その名は四方に広まり、その門に集る相ついだ。
3.渡辺幹一(1864〜1915)(行政・産業)
妙泉寺境内に大きな「渡辺君碑」が建っている。自然石で中央部の高さ一八七cm、干部の巾120cm、上部巾60cm、厚さ約40cmの堂々たるもので高さ64cmの二重の台の上に建っている。信原継雄撰、大原専次郎書となっている。碑文に日ク
「天下無知其名而村人不能忘其徳今茲丁巳有志胥謀欲建石」と碑石建立の理由を述べている。氏は元治元年十二月三日本村古新田に生まれ、幼名鹿三郎、後幹一と改めた。
″資性磊落にして義を喜び若年より濫觴期にあった福田村の経略に参加し、財・政・教育・産業等百事に付いて縦横の才幹を顕し以て今日の基礎を成した。
即ち明治二十七年大福村村議会議員、並びに理財会計に任じ山田村との合併に奔走し、同三十五年大福村、山田村を新たに福田村を設置するに至った。其の他同三十六年漁業組合を創立し、同四十一年古新田信用販売購買組合を設立し、いずれも理事長として其の発展に尽力した。又三十九年豊州村四ヶ村学校組合の議員となし、青年団を組織し顧問となる等、子弟の教育にも多大な功績を残した。
大正四年十月二日病を得、眠るが如く長逝。享年五十二歳であった。
4.難波幾太郎(1845〜1919)(行政)
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難波翁頌徳碑 |
弘化二年一月二十九日備中都宇郡大福村大庄屋難波忠作の長男に生れる。長じて松濤と号した。
人格高邁にして、人望篤く、明治二十二年、町村制が布かれるに当り推されて大福村長となった。明治三十五年大福村、山田村が合併し福田村が誕生すると共に、更に選ばれて初代福田村長となり、引き続き村政を担当した。先ず村役場を建設すると共に、子弟の教育には特に熱意を注ぎ、村の中心部に小学校々舎を新築し、分化向上を計り、悪疫流行防止のため隔離病舎を高尾山に建築、村内交流、東西交通の便を計り、幹線里道を建設し、更に農業用水確保のためにあらゆる努力を払い、水路の改修を重ね、豊沃な農村、今日のわが福田村を作り上げる等数々の業績を残した。大正八年十一月九日病のため七十五才にて没す。
在職三十有余年の間、功績により前後十数回各種の賞を受く。大正八年二月十一日の佳辰に模範村長として、勲六等に叙せられ瑞宝章を授与される。翁は美髯風耒犯し難い風格があった。寡言寡慾にして公益には身を以って実践をし範を示した。
長年月に亘って村行政につくした功績、並びにその徳を偲び、村民相計り昭和五年五月福田村役場地内に「難波翁頌徳碑」を建立し、永く後世にその功績を称へられるにいたった。
5.龍治 醇(1884〜1924)(行政)
彼は明治十七年(1884)十一月十四日、都窪郡福田村大字妹尾崎に生まれた。龍治家は幕末-明治-大正-昭和にわたっての地方の大地主で、代々庄屋の職にあり、祖父廉平は都宇郡長を勤め、父・竹太郎は銀行の重役や戸長を勤めた。
さて醇は旧制の興譲館中学を経て上京、早稲田大学商学科に学び、卒業後は実業界に入り、中国銀行や倉敷紡績に関係し、経済界で活躍、三十四歳の時、その高い見識を買われ政界入りを勧められ、まず県会議員に立候補、当選、立憲青年党を組織、県政に活躍し三十七歳の若さで県議会副議長となり、その手腕は経済界・産業界から高く評価された。
しかい好事・魔多しとか、彼はこの頃より体調を崩し、県議会を一期勤めただけで県政での活躍は断念せざるを得なかった。かくして体調の回復を図っていたが、それも束の間、対象十三年(1924)三月、続いて福田村・村長に押され、郷土の村政に挺身せざるを得なかった。
しかし思えばこれが彼の命取りとなったか同年八月五日、遂に現職のまま、僅か在職、五ヶ月にして死去したのである。
この前途有為の偉材・指導者を失った村民は号泣したという。
6.河口渓石(1871〜1936)(画家)
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河口渓石画伯 山水 |
本名は浜次郎、出生地は高尾、明治五年五月三日、七次郎の長男として生れる。南画をよくす、大阪にて多くの画家に接し、日本画、洋画などに傾注したが、静かに物を考える性格からか、十日も二十日も家を出て、漂然として、渓谷山野を歩き、画筆を友として暮らす事が度々あったとか。号の渓石はかかる意味でつけられたという。画道に執念を燃やしはじめたのは、四十才の晩年ではあったが、少年時代から画は巧みであった。加齢するに従って南画を主とした。山田にても彼を後援する会もでき、帰郷の折はその都度、檀那寺の浄泉寺の座敷をかりて筆を運んだ。後援会員の目前にて得意の蓬莱山やカニを描いて頒布していた。山田地区を中心として、広くその画を観ることができる。
画伯は、幼少の頃は経済的にも恵まれず、明治三十九年大阪太融寺町に居を構えた。食い道楽の大阪で一旗揚げようとした。当時屋台うどんが繁盛しているのに目をつけ、屋台を貸す商売を思いつき、多くの屋台貸しからはいる金銭が思いの外多く、あちこちに数十軒の借家を建て四十才頃には可成りの蓄財ができた。
この前後の頃から、覇業に専念し始めた。又一方では漢学を学んだ、画中に往々、漢詩や漢文にて画の説明がなされている。後年ラジオ・テレビの人生相談で有名な、融紅蘭女史とも絵画を通じて親交があったと言われている。
昭和十一年四月二十六日病歿す。齢六十四才
7.斉藤大吉(1872〜1949)(学者)
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斉藤大吉 昭和15.5.14 叙勲記念 |
明治五年十一月都窪郡福田村大福難波幾太郎の三男として生れる。明治二十四年尾上村斉藤家を嗣ぐ。二十五年岡山中学校(現岡山朝日高等学校)を卒業。京都第三高等学校に入学したが、在学中、学制改革のため二十七年山口高等学校に転校。二十八年東京帝国大学工科大学に入学、採鉱冶金学を専攻。三十一年首席で卒業。同年京都帝国大学理工科大学創設されると同時に理工科大学助教授に任ぜられて、採鉱冶金学教室の設備開講実習指導に当る。三十五年一月ドイツに三ヵ年留学を命ぜられサクソニーフライベルヒ鉱山大学で採鉱冶金学を究め、更に米国へ渡りアーヘン高等工業学校ヴユスト教授、コロンビア大学ハウ教授等の研究室で金属及び、合金の本性を解明する方法を学び、三十八年四月帰国と共に理工科大学教授に任ぜられる。翌三十九年工学博士の学位を授与せられ冶金学第一講座を担当し、専ら鉄冶金学及金属加工法を講議した。又大阪工業大学創立に当っては委員として参与、解説の後冶金学主任となり、学術会議の工学部員に挙げられる。大正八年再度欧州に学界調査に赴き、翌九年帰朝する。同年京都理工科大学工科部長となる。我が国採鉱冶金学の最高権威者としてその教えと、その著書『金属合金及其の加工法』は当時冶金の最新法として取入れられ、我が国産業の基幹をなす製鉄業界の急速な発展の礎となっている。その功績により昭和十五年五月勲一等瑞宝章に叙せられる。終戦後年には勝てず、昭和二十四年三月二十五日他界す。惜まれてもあまりあり。齢七十七才
8.軒水、神崎熊治(1872〜1950)(彫刻家)
明治五年八月、備前一宮村和気島家に生れ、長じて大福神崎家に入り神崎金三郎長女くらと結婚、新しく神崎家を創設した。彼は岡山中学校(現朝日高校)在学中、満谷国四郎氏と交友があり、氏の画材に刺戟されて彼の後年の芸術的才能が培れる。岡山中学校卒業後逸見東洋に師事し、彫刻の技を磨き茶含などに刀技をふるい、雅号を軒水と称した。筆筒彫刻により師の許しを得て、推朱・水墨などの推漆物に進む。彼の自負する処は、この推漆物で、推朱雷神風神が代表作である。晩年の大作として挑んだ百仙の図香盆は旧師逸見東洋の風神雷神に刺戟されて取りかかったものであろうが荒彫半ばの段階で世を去った。氏には外に鳥鷺の碁笥、菊づくしの香盒、蜂の棗などの推漆系の作品が多い。又茶盆には般若心経の経文を細字彫刻したものがあるが、これは辱知文人諸氏に贈って交友を深めたものであり、自らの煩悩を消滅するためにと百八本を目標として力作を続けた。然し実際には八十本程度にとどまり念願を果すことができず昭和二十五年十月死去。齢七十九才
9.岡 仁八(1879〜1952)(教育・行政)
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旧姓を矢部と言い、明治十二年三月十二日、赤磐郡熊山町千躰230、矢部金三郎の次男として生れた。後、縁あって福田村山田1365・岡 丈太郎の長女と結ばれ、改姓して岡となった。
資性、謹直にして内剛外柔の温厚型・頭脳明析・人に親しまれ人の面倒をよくみたという。この性格は長ずるに従い益々強く、明治三十一年、岡山県師範学校に入学、三十五年三月卒業、持って生れた資質と万能に秀いでた新進気鋭の若き教師は至るところで歓迎された。若くして校長に抜擢され、開成高等学校から大正九年三月、本村の小学校長として赴任し、ふるさとの子弟教育のため挺身、農村教育に新風を吹き込んだのである。
かくする中に大正十年十月、突如、村民に強く要望され、村長就任のため退職することを余儀なくされた。そのため教育に注いでいた情熱を村政に転化、昭和七年八月まで二期・八ヶ月間を村長として勤めた。そして退職後は悠悠自適と思うも束の間、今度は地元山田部落より推されて村議として出馬、昭和九年二月より、十七年一月まで、また二期・八年間を概ね議長として活躍、神崎村長を補佐し、村政推進の主役を担ったのである。
思えば木村の教育や行政に尽した二十有余年間の業績は誠に顕著なものがあり、そのため、ふるさと福田村は他町村も羨む平和で、裕福な農村となり、今日の基礎をつくったといえよう。
では彼の晩年はどうだったのか、これを一言にして言えば、余生は趣味に生きた人ということが出来る。特に花づくり、東洋蘭に興味をもち花を育て花と語り、また閑暇を得ては老友を招き、囲碁に時を忘れ、書画骨董を集めては端座し香をたき鑑賞したと言う。しかし彼にも寿命があった。昭和二十六年十二月十五日ふとした病がもとで大往生、七十三才で人生の幕を閉じたのである。
10.料治義則(十洲) (1877〜1958) (画家)
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十洲筆 |
明治十年妹尾崎に生れ、幼名を初太郎と言い長じて義則と改めた。青年時代に法律を勉強したり、教員の免許をとったりして、岡山市商業学校に奉職していたこともある。明治三十七年、八年の日露戦争には陸軍軍曹として戦線に参加をしている。その後、藤田組に入って働いたが、大正の初期、満州にわたり満州医科大で解剖図を担当していた八年の間、北京に往来して支那現代大家金昌城・陳年・呉昌碩の門をたたいて絵画を研究した。大正十二年に東京に趣き美術学校の専攻生として入学し、荒木十畝について花鳥を研鑚すること三年、ここで本格的に画家として活動をするようになった。剛を十洲と号した。齢は四十才を余程過ぎた頃であった。院展に入選した花鳥画もある。
昭和三十三年十一月七日に八十二才で歿している。
11.松下寛吾(1900〜1982) (柔道)
本村に起倒流の流れをくむ″起倒流明武館大和会≠ェあった。その創設者は″松下寛吾≠ナある。以下その略歴を記し、功績をたたえたい。
松下寛吾は明治三十三年(1900)福田村大福に生れた。幼少の頃より武芸を好み、大正八年三月、起倒流備中派十二代、小野田坂太郎師範=(岡山市岡町明武館)の門に入り、辛苦の修業に耐えて切磋琢磨し、武道の精妙を極めた。
大正十二年四月免許皆伝の身となり、その喜びと感激から真の武道精神と技を広く、地方、近畿の青少年達にも伝えようと地元の協力を得て、同年八月私設道場、修道館を古新田部落に創設した。齢まさに二十三歳の若さであった。
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柔道の部 |
かくて創設以来九年、道場は隆盛の一途をたどり狭隘を感じるまでに至った。そこでこれに対応し、昭和六年大福部落の自宅を解放し、道場とし、″精力善用、自他共栄≠建武の精神として、道場名を「明武館大和会」と改称、地方青少年に柔道の真髄を教えたのである。
しかし昭和二十年八月、戦い敗れ、終戦となり占領軍の指示により武道は禁止され、明武館大和会も解散の止むなきに至った。思えば大正八年から昭和二十年まで二十有八年間、彼が柔道を通じ、青少年の心身を鍛練・善導した功績は顕著なものがあったといえよう、大和会道場創設以来の門弟のみでも、その数は五百余名、中にも免許皆伝の安井政一・長瀬克己・安原浅治郎・渡辺通・松下己代治等は、松下門下の逸材であった。
なお松下寛吾は八十二歳(1982)で大往生を遂げたがその建武の志は今日もなお生きている。その高弟の一人が新柔道復活後も明武館大和会の精神を生かし、岡山県下の柔道界の重鎮として斯道発展のために活躍しているからである。