寺院
1.本覚山妙泉寺 古新田字寺前
日蓮宗盛寺末
本尊 十界具足の大曼陀羅
![]() |
第79写真 妙泉寺 |
永九年(1632)、開山・本覚院日感上人が庭瀬藩主戸川佐守正安の招きにより、開発後まもない当地に来て、吉田四郎右衛門などの外護を受けて堂宇を建立し、寛永十三年丙子年開堂供養を行った。吉田四郎右衛門は藩主戸川達安の命により、寛永三年妹尾新田(木屋新田)九十三町五反八畝十歩、高一千石の新田開発をして、古新田の基礎を築いた人である。開山日感上人は吉田四郎右衛門の第二子であり、幼くして備前三門吉祥山石井寺(寛文六年-1666-十二月不受不施派弾圧に際して破却される)領擁院日英に就いて出家して修業していた。
寺号は吉田四郎右衛門の院号妙泉院善勝からきたものである。
本堂は、文政十年(1827)に再建されたものである。
山門(薬医門)は明治三十二年八月の暴風雨で倒壊し、現在の山門は明治四十一年四月の再建になるものである。総欅造りであるが、門扉の一枚板は寛永九年創建当時の材料をそのまま利用している。
その他、客殿・庫裡(昭和四十六年再建)白雲堂(昭和四十一年建立)などの建物がある。
資料 本堂棟札
@ 寛永九壬申天九月大吉日同国妹尾邑
棟梁 嶋田 惣右衛門
当山開基本覚院日感 重 吉 甚 吉
磯 吉 和治郎
平 吉 孫 吉
惣 吉 常 吉
弥 吉 周 吉
A 奉再建立本堂 吉田三郎右衛門
維時文政拾丁亥三月吉辰日同早嶋邑
権棟梁 渡 辺 元 八
同六世
惣祖中 当領古新田邑同村引請世話人
庄屋 与 市
歳寄 岩左衛門
伝 兵 衛
庄屋 平 六
同 北大福村 歳寄 平 助
又 四 郎
妙泉寺境内本堂に向かって石塔三基がある
@ 妙泉寺開山塔
万治二巳庚十一月二十一日 吉 田 武兵衛
開基本覚院日感大徳 吉 田 伊平治
文政四辛巳歳十二月造立之 吉 田 長右衛門
本覚山六世伝法日観代 吉 田 弥右衛門
吉 田 治右衛門
吉 田 姓 一 結
為 子 孫 長 久
世話人 吉 田 利左衛門
吉 田 孫 平
A 文政十三年庚寅年三月吉祥日建之 当山七世日充代
南無高祖日蓮大菩薩五百五十遠忌御報恩
如日月光明 能除諸幽冥
斯人行世間 能滅衆生闇 惣檀中
B 文化五戊辰五月二十七日
南無妙法蓮華経日蓮
心善妙学童女
松 下 吉次郎
2.妙法山浄泉寺 山田字西本村
日蓮宗覚如山不変院(庭瀬)末寺
![]() |
第80写真 浄泉寺全景 |
本尊 日蓮大菩薩
開山年代は不詳。
開祖は大教院日受上人で浄泉ともいった。浄泉は享保二年(17171)に歿している。天和三年(1683)の建立とされ、開祖の諱をとって浄泉坊と号したが、もとは真言宗の寺院であった。近隣の他寺院と同様に支配者の圧力によって日蓮宗に改宗したものと考えられる。
元来神仏混合時代から伍社神社の社僧であった。元禄十四年辛巳(1701)九月の伍社神社本殿再建の棟札が浄泉寺に保存されているが、その棟札に「本願当村浄泉寺」と記されている。この頃すでに寺号は浄泉寺とされていたのである。
『備中誌』によると、「開山不詳、寛永三年中興して造立の住坊門」と記録されている。寛永三年といえば、戸川氏によって、領内寺院に対して日蓮宗への改宗を求めて圧力が加えられていた頃である。
現在の本堂及び薬医門は安政六年(1859)の改築によるものである。改築工事を行った第十五世日海上人は、この時、門へ登る石段を構築し、手植えと伝えられる松は、現在、門前に見事な枝を拡げている。
境内東手に西面して石塔四基がある。
@ 奉納妙法蓮華経法師功徳品第十九
A 是人於仏道 奉勧法千派真俗一千人
南無妙法蓮華経法界萬霊
決定有無疑
貞亨第二乙丑暦仲夏中旬三日(1685)
B 元祖日蓮大菩薩
安永十辛丑歳十月十三日(1780)
C 南無妙法蓮華経 正面
天下泰平五穀盛就 南面
大覚大僧正 北面
文政五壬天四月三日立 裏面
3.啓運山盛隆寺 妹尾千鳥
日蓮宗房州(千葉県)小湊末寺。京都妙覚寺末寺であったが、天和二年(1682)に誕生寺末寺となる。
本尊 釈迦八多宝如来
四菩薩日蓮大菩薩
寺の創立は慶長十年(1605)四月八日で、庭瀬藩主戸川氏初代達安によって開かれた。
達安の娘が他家へ嫁いで間もなく早世したので、悲願の達安夫人は一宇(寺院)を建てて娘の霊を弔う決意をし、たまたま妹尾村に真言宗寺院があったのを戸川氏信仰の日蓮宗に改宗させることにした。
境内は二千余坪、その中心に智応院・浄園院・善立院・安祥院の四末寺があり、八間四面の本堂(天明二年改築)、(1782)客殿(宝永七年、(1710)遷化の第四世代の建立)、位牌堂(安政六年(1859)改築)、観音堂(天保五年再建)(1834)、番神堂、鐘楼(嘉永七年移築)(1854)、仁王門(宝暦十二年(1762)改築)などの寺坊が整然と並んでいる。都窪郡内屈指の大伽藍であるところから、俗に大寺と呼ばれている。
なお、仁王門は日蓮宗伽藍にはないもの。もと真言宗寺院の建物がそのまま残っているのである。
4.観行院 妹尾字後田
日蓮宗盛隆寺末寺
創立寛永八年(1631)三月、開山僧は日照といわれる。もとは山田村に建立されていた。
仏堂が一つ、鬼子母神堂があり、本尊は鬼子母神である。この堂は明和二年(1765)に佐藤又兵衛他五十人が寄進したものと伝えられている。
5.遍光山蓮華院千手寺 大内田
真言宗京都御室仁和寺直末一等格院
本尊 木像千手観音菩薩(三尺余)
もと日差山(倉敷市山地)衆徒の中にあった。報恩大師の法脈にあったが、寛永三年戸川氏の日蓮宗改宗の圧力に会い、この時日差山を去って大内田の地に遍ったものである。
本堂・客殿・庫裡・鐘楼・門・蔵の他、境内に鎮守堂(金剛明王を祀る)などがある。
6.清光山応徳寺 下撫川保田
臨済宗京都東福寺末
開祖は別峰大殊円光国師、元久二年(1205)の建立
本尊 薬師如来
本堂(正徳五年-1715再建)、庫裡(安永五年-1776再建)、表門(天保七年-1836建立)、土蔵の他、境内に地蔵堂と鎮守堂がある。
7.日蓮宗と三十番神
北高尾山頂には、高尾番神社または三十番神宮と呼ばれる社がある。祭神は三十番神。
三十番神とは、最高の教えといわれる法華経の働きを守護する神で、一日一日神それぞれ異なった神が守護に当たり、一月に三十の神々がかわるがわる法華経を守護するとされている。この三十番神を祭る建物は三十番神堂・番神堂または鎮守堂とも呼ばれていて、本来日蓮宗寺院の本堂に近い所に祭られる日蓮宗特有の建物である。
他の宗派でいえば、鎮守の神様を寺内に祀った鎮守堂がそれに当たるものである。
福田村の場合は、必ずしも寺の本堂の近くにはなく、「法華の町妹尾」にふさわしく村内各地に三十番神を祭る社堂が存在している。
高尾三十番神宮の社殿の天井に二枚の棟札板があって、ここの信仰の歴史の一端を物語っている。
其の一
備中古新田 明和三(1766)丙戌年九月吉祥日
南無妙法蓮華経三十番神
本覚山妙泉寺三世真善院日洞代
其の二
氏子中世話人之面々家運水昌子孫長久
南無妙法蓮華経奉三十番神拝殿建立
維時文政癸未天(1822)四月中旬大吉祥日
施主惣氏子中
本覚院妙泉寺日観 花押
河口 小左門衛門
永瀬 六右衛門