神社
1.伍社神社 山田字庄田
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第71写真 伍社神社本殿 向って左側が日蓮宗、右側が真言宗宗徒の氏神である |
高尾を除く山田と妹尾崎の氏神
祭神 天照大神
大吉備津彦命(いちきしまひめのみこと)
市杵島比売命(すさのおのみこと)
須佐之男命(ほんだわけのみこと)
誉田別命-(応神天皇)
この五柱の神を祭神としているところから五社神社という名称がつけられている。
神といえば、わが国の親神としてあがめられた天照大神の信仰は相当根強いものがある。天照大神の信仰が地方に広まってくるのは、江戸時代以降のことである。伊勢神宮が、近世になって地方に伊勢講を組織する運動を起こしたことによって、飛躍的に信仰圏を拡大している。
岡山県下でも江戸時代の終わり頃になると、ほとんど全域に伊勢講がつくられて、講仲間の代表者は交代で年一回の伊勢まいりをした。
伍社神社石鳥居脇にある一基の石灯篭の銘文「宝暦十三癸未(1736)九月吉日坪井村いせこう中」が、当地にも伊勢講が組織されていたことを物語っている。
また、皇祖神、天照大神を太陽神にみたてた信仰も考えられ、天の恵みに対する信仰で、村内各地に見受けられる地神の石柱に対するものである。
大吉備津彦命は、四道将軍の一人として大和朝廷から派遣され、吉備地方を平定した神であり、吉備津神社の主祭神である。
市杵島比売命は海神であって、厳島神社の主祭神である。
厳島神社は平清盛の深い信仰を集めていた。妹尾郷の開発領主妹尾太郎兼康は、平家の侍大将として信任が厚かった。兼康は高尾の邸に厳島神社を勧請(神仏の霊を移して祀ること)している。このような事情があってか、村内各地に市杵島比売命を祭る社殿が見られる。
自然の災害を荒神のなすわざとみたてて、その御魂を鎮める信仰は、農村社会では極めて、重要であった。荒ぶる神として、人間や五穀に災害を与える神である荒神に、神話の中で悪者扱いされている須佐之男命があてはめられ、荒神様の祭神とされている。
また、須佐之男命は、悪病神を成伐した神としての信仰も多い。中大福の三社宮の祭神である須佐之男命がこれに当たる。
誉田別命は応仁天皇の別命で、八幡神社の祭神である。武勇の神として八幡神社を氏神とする地域は非常に多いが、本来これは武家政治を確立した源氏の氏神であった。武家の棟梁源氏の影響力がうかがえるところである。
妹尾・山田は、日蓮宗信徒が多く、「妹尾千軒みな法華」といわれる地に妹尾崎、坪井には珍しく真言宗徒の多い土地柄である。
伍社神社の祭祀にあたり、同一社域の中にほとんど同一の構えになる社殿を日蓮宗徒・真言宗徒それぞれ別個に建立して祭神を祭っている。
向かって右側の社殿が真言宗徒の祭るものであり、社僧は千手寺(大内田)であった。右側は日蓮宗徒の社殿で社僧は浄泉寺である。
2.厳島神社 高尾
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第74写真 高尾厳島神社拝殿 右手が日蓮宗、左手真言宗 |
山田のうち高尾及び大倉の氏神
祭神 市杵島比売命(厳島大明神)
寿永年間、妹尾太郎兼康が領内鎮守として、その屋敷に社殿を造営し、安芸の厳島神社の祭神を分祀したと伝えられている。宮山は兼康の邸跡であるといわれる。当時平家は深く厳島明神を崇めていた。平清盛と厳島神社との結び付きは、清盛が安芸の守であったこと、及び宋との貿易振興のため航海神である厳島明神の信仰を深めたことなどが考えられる。
仁安三年(1168)社殿の大改造をなしてからは、清盛は、毎年一回は必ず参拝に出向いている。
平家の侍大将として三備を領し、無二の平家方であった兼康は、平家にあやかり、また平家への忠誠のあかしとして、この神を高尾に勧請したのであろう。
高尾にも、山田・妹尾崎と同様に真言宗徒と日蓮宗徒とがいて、伍社神社と同じように、同じ境内に別々に社殿を建てて祭祀している。
向かって右側日蓮宗徒社殿 社僧妙泉寺
左側真言宗徒社殿 社僧千手寺
資料 吉田克己家(引船)文書
@ 宝暦壬午年(1762)十二月九日 高尾村
厳島大明神社造立
吉田三郎左衛門建立
A 文久癸亥年(1863)高尾村
厳島大明神社再建之儀 同村世話人
同年三月二十八日棟上
吉田康之介
吉田政左衛門 両名棟へ上る
3.厳島神社 古新田字西金谷
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第75写真 古新田厳島神社 左手墓地のむこうに妙泉寺本堂が見える |
古新田の氏神
祭神 三十番神
厳島大明神(市杵島比売命)
寛文十年(1670)妙泉寺第二世蓮勝院日賢上の代、法華経守護神である三十番神を勧請して寺内に社殿を建立し、翌年寛文十一年十月に古新田庄屋吉田三郎左衛門(甚次郎の子)の発願によって高尾厳島神社を分祀して三十番神と合祀し古新田の氏神とした。
明治元年、政府の神仏分離策によって厳島神社を妙泉寺境内から分離した。
社殿は延亨四年丁卯(1747)九月に改築され、昭和四年四月に再度改築された社殿が現在の建物である。
拝殿は公民館としても利用されており、正面に「修道館大正丁巳一月」の扁額がある。
4.三社宮(祇園社) 大福496
中大福の氏神
祭神 進雄之命(須佐之男命)
天照大神
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第76写真 三社宮 |
八幡大明神
往古村内一帯に疫病が大流行して、村民の困憊はひとかたならぬものがあった。
そこで、疫病を鎮めるために、備後福山にあった疫病除けの神である祇園宮(沼名前神社)から須佐之男命を分祀勧請して、疫病退散を祈願した。
須佐之男命は、疫病神退治の神という信仰がある。
祈願のかいあって、間もなく村内疫病の流行は鎮まったと伝えられる。福山の祇園社から須佐之男命を勧請したので祇園社または祇園宮の呼称がある。
後に天照大神と八幡大明神(誉田別命=応神天皇)の二神を合祀したので三社宮とも呼ばれているし、進雄神社と称した記録もある。
社僧は妹尾盛隆寺である。
5.鴨池八幡神社 大福36
北大福の氏神
祭神 三十番神
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第77写真 鴨池八幡神社本殿 |
大雀命(仁徳天皇)
寛永二十年(1643)、大福新田の開拓が成就し、古新田庄屋吉田甚次郎次男喜七郎(宝永元年-1704-死去、六十七歳)が大福に分家して庄屋となった。
その後、古新田厳島神社から三十番神を分祀して社殿を建立し、続いて大雀命を合祀して八幡宮とした。
創建当時、社域周囲は池になっていて、鴨が群生していたので鴨池八幡宮と呼ばれるようになった。
現在でも周辺一帯は低湿地であり、石垣をめぐらした周囲は幅約一間の堀となっている。
本殿南がわに稲荷大明神がある。祭祀年代は詳しくわからないが、祭神は勇徳稲荷大明神である。
稲荷大明神は、本来農業神信仰で、五穀豊穣を祈願するものである。江戸末期になると、金の神、商売の神という考え方が加わって一段と民間信仰の輪を拡大していった。
毎月の一日・十五日及び縁日には近郷近在から多数の参詣人が続いた。
6.外野八幡神社 大福1094
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第78写真 外野八幡神社拝殿 |
外野を含む南大福の氏神
祭神 八幡大明神(誉田別命=応神天皇)
元禄元年(1688)外野新田の干拓が成しとげられて入植者があい継いだが、その多くは妹尾村の住人であった。従って、彼等の氏神は、その後ながらく妹尾和田にある栗村神社、通称「和田の宮」であった。
現在でも、七五三その他改まった行事に際しては、和田の宮へ参拝する習慣がなお続いている。
時代は不明であるが、まだ興除新田が開発されていなかった頃のこと、ある日、外野海岸へ八幡大明神の神号を認めた神札が流れついた。そこで村人(陶山氏との説もある)がその神号の札を祀り社殿を建立したのが、この宮の創始と伝えられている。社僧 盛隆寺
7.栗村神社(和田の宮)
妹尾東磯の氏神、妹尾東磯・西磯の産土神ともいわれる。
祭神 妹尾叔奈麻呂命
妹尾叔奈麻呂命は、吉備津彦の軍に協力して、吉備地方平定に功労のあった神である。
追われて逃げのびた二人の賊は早島に住みつき、やがて海上通行船に対して悪事を重ねるようになった。島の住民の願いに応じて叔奈麻呂は栗坂鴫名軍と共に早島の賊を攻めたが、なかなか退治することはできなかった。そこで、吉備津彦命の親衛隊の応援を得て、遂に平げたというのである。
叔奈麻呂は潮瀬の小岬に住んでいた。その家が海に向かって建っていたので、輪田と称した。後に南の栗林に居を移したので「和田の栗村」というようになったと伝えられている。 社僧 盛隆寺
大福新田が開発された時、新しい土地に入植した農民達は、古新田からは主として北大福村へ、妹尾本村から主として中大福村・南大福村へと移っていった。妹尾本村から中大福村と南大福村へ移住した人たちは、神仏の信仰については妹尾本村との結びつきが強かった。
現在、氏神としては、三社宮・外野八幡神社が祭祀されているが、同時に栗村神社へ宮まいりするならわしも強く残っているのである。