消えた副業

 (1)麻の栽培。まず麻の栽培からみる。畳表の経糸として使われた麻は西部地域の畑作として栽培されていた。2m以上伸びた大麻を刈り取って煮沸して表皮をむき取り、俗にいう「ひめ」にする。それを鉄の櫛で割ってつむいで経糸にした。これは昭和の初め頃まで栽培されていたが、輸入物にその座を奪われてしまった。
 
(2)クレックス産業。クレックスは稲藁を綿糸か人絹糸で足踏機にかけて巻付け、それを経糸の綿糸や人絹糸に織り込んで、織り物にしたもので、現在のカーペット形式のもので輸出品として盛んに製品されていたが、昭和5、6年頃の世界的不況で輸出がストップして消えていった。
 
(3)中継畳表。藺草は「長・ろく・とぼ」と三段階に分けられて「長」は花莚に「ろく」、「とぼ」は中継畳表に織られていた。昭和10年頃まで続いた産業であったが、茣蓙製品が畳表に侵入して中継畳表は姿を消してしまった。
 
(4)大麦・裸麦・小麦の栽培。裸麦は麦飯のもとでかなり長い間栽培されたが、生産高は多いものではなかった。大麦は飼料に使われるのが主であった。小麦は小麦粉の原料で、栽培は戦時中食料不足であった時、裏作として奨励され、昭和15年頃に最高の生産高を示していた。しかし、戦後アメリカなどからの輸入品が激増してきたので、これもまた国内産業としては成立しなくなった。
 
(5)藺縄・藺籠・野草莚・莚・藁縄。これらの製品は、戦後一時期に必要物品として盛んに製造されたが、粗悪品が粗雑な機械によって製品化されたため、石油製品による美しさの前に一たまりもなく消え去ってしまった。
 
(6)水産物。この地区は児島湖〆切り以前は、潮の満ちた時は海水が山陽線の撫川鉄橋あたりまで押上げて来ていたので笹ヶ瀬川、足守川は淡水魚・海水魚が入り交った川となり、かなりの魚がおり、投網や四手網、その他の漁法で漁をしていた。児島湖の〆切りで海水の流入が止められてからは水産業は火が消えたようになった。「地がに」鰻・白魚・ままかり・はぜ・えび・ぼら・鯰など盛んにとれていたものが、環境の変化には抗すべもなく、今は後かたもない。
 
(7)牛馬の飼育。耕耘に使う牛馬は農家が飼育していた。農家はこの牛馬を家族同様に考え、大事に飼育したのであったが、耕耘機が発達したので、自然に飼育する者もなくなった。
 
(8)石材産業。この地区の西部丘陵地高尾・山田は概ね花崗岩地帯で、石材産業もかなり発達していた。高尾地区の石材は大阪城築城の際のたこ岩として、今日もその名残をとどめている程である。現在はコンクリート工業に押されて、石材の利用価値がなくなり、産業として成立しなくなって遂に消滅してしまった。ただ石場として高尾・山田にその一部が名残りを留めている。