東用水路
岡山藩は、長い間興除新田の開発に意欲を燃やして、文政四年(1821)三月四日、やっと鍬初めにこぎつけた。
新田開発につきものである灌漑用水路は、新田開発ににも増して困難な課題であった。岡山藩は、難題解決のために幕府権力にすがることにし、山田村はこの用水問題のあおりをくって、庭瀬藩板倉氏の支配から天領に編入された。
こうして難航の末開さく工事に至った興除新田への用水路は、東用水路及び西用水路である。妹尾郷村々の反対に会った東用水路の工事が開始されたのは、文政四年三月十九日というから、興除新田開発の鍬初めとほとんど同時であった。
東用水路の総延長は千八百三十四間であり、川幅四間である。山田村地内から妹尾村池新田にかけてのおよそ九百間は古川が拡張された。
開さく工事の中で、妹尾村地内汗入は岩盤が固く難工事であった。当時の岩盤開さく工法は、岩を熱し、もろくして崩し、掘っていくというまことに未熟な方法であった。難工事の末、やっと汗入岩盤の開さくを終えて待望の水を通したが、勾配が不十分であったために予定通り水が流れなかった。
人々はこれを皮肉って「栗坂の次郎狐にだまされて、汗入掘っても水はコン、コン」と評した。妹尾郷村々の用水開さく反対の動きに対し、栗坂村庄屋八木次郎と大内田村庄屋金右衛門の二人が熱心に説得して、山田村以外の村々を了解させていたからである。東用水路が開かれると、栗坂村や大内田村は足守川洪水時の冠水の被害を受けることが少なくなるので金右衛門、次郎の説得はひじょうに熱心であったのであろう。
汗入の岩盤の開さくを終え、樋門・分水樋を据えつけて東用水路が完成したのは文政7年(1824)三月のことである。三年に及ぶ工期を要し、総経費は七千四百両余である。
東用水路の開さくの結果、つぶれた田畑は二町五反余りであったが、岡山藩から質入値段による地代銀と裏作代が支給された。
地代銀総額は九貫七十一匁、裏作代は一貫八百三十匁であった。
興除新田は、岡山藩の所領となる条件で開発に着手されたのであるが、新開地の用水については、幕府に依存したものであった。
岡山藩は、幕府に対して用水組織の完成をまって自藩に引き渡してもらうよう歎願している。
大藩であった岡山藩は、幕府の力を発動してもらうことによって領域が異なる高梁川からの用水系統を樹立することに成功し、大規模な新田開発をしてその経営を押し進めたのである。
この文政年間完成の東用水路は、すでにのべたように開さく工事の勾配が不十分であったので通水が悪かった。このことは新開場の用水確保の上で問題を残すものであったし、沢所村々の余水・悪水の排除の上での支障となり、出水時には依然として冠水の被害を蒙っていたのである。
明治三十三年に藤田組が児島湾を干拓するに際して、興除村の大水門から千八十間に及ぶ水路を延長して悪水を流すようにしたが、これも十分な効果はなかった。
このため当時庄村長であり、沢所組合常設委員であった内田弥太郎は、技術者に用水路を調査させて通水不良の原因を報告させた。その報告は次の通りであった。
1.汗入の掘割がかたい岩盤のために不十分で勾配が不足している。
2.水路中の橋台の幅がせまくて通水が悪い。
3.水路の屈曲が多いこと。
4.樋門の樋底が高いこと。
この調査結果をもとに、内田弥太郎は興除村・藤田組と交渉し、明治四十二年にこれらの通水障害除去工事を実施して、沢所の余水・悪水の排除と興除・藤田両村の用水確保の解決をはかった。
その後大正四年、内田弥太郎と江戸時代栗坂村庄屋八木次郎の功績をたたえて、汗入に関係村々によって顕彰碑が建立されるところとなった。
東用水路の管理には、用水差配人給・樋守給・水門番給を新開場興除から支出することを条件として、以後五年間倉敷代官所が当たることになった。
文政五年(1822)十二月、沢所組合村々の庄屋と湛井井組のうち妹尾郷村々の庄屋並びに新開場兼帯庄屋天城村富次郎・迫川村学治・槌が原村元三郎との間で、将来における水路・樋・分水等の破損修理工事について取り決めをしている。これによって東用水路の浚渫・川緑の修理、樋・分水・橋の伏替えは、全て地元の村々へ届け出て、村役人立会いのもとで新開場から人足・入用を出して行うことになった。
なお、妹尾崎村の底樋の所から妹尾池新田までの水路については、浚渫と東岸の修復を新開場が担当し、西岸の修復については地元村々がおこなうこととされていた。
この区間の水路は古川を拡張したところであり、山田村をはじめ妹尾崎村、妹尾村の水田の一部がこの東用水路から取水していたからである。
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第60写真 関戸水門 | 第61写真 関戸六間川 |
また足守川の圦樋、撫川村字西野の底樋、妹尾崎村の泉水樋門及び底樋の伏替えは、沢所組合村々と妹尾郷村々の立ち会いのもとで、新開場が人夫、入用を出して行うことになっていた。
関戸の石水門尻(関戸水門-六間川の排水樋門)の浚渫は、従来から沢所組合村々が行い、人夫賃、諸入用を新開場が差し出すことで折り合いがついている。
石水門尻の浚渫は、従来から沢所組合村々が行なっていたのであるが、新開場が入用を負担することになったのは、六間川の余水・悪水を新開場へ導入すれば流量が減少するので、土砂が堆積しやすくなるという理由からであった。
関戸水門(写真60)の修復については、従来通り沢所村々の負担で行い、漏水防止のための工事についてのみ新開場からも出費することになっており、これ等の取り決めは現在も守られている。
興除新田の用水路としては、東用水路の他に西用水路があった。
西用水路の最初の計画は、酒津に樋門一双を増設して取水しようとするものであった。
この計画は八か郷村々の猛反対に会って中止せざるを得なくなり、結局、八か郷の余水・悪水を取り入れることになった。
この水路は番水川の流末から福島・五日市・中島・早島を経て新開場に至るものであった。西用水路は、水路の勾配が十分でないために水掛りが悪かったので、いつしか見棄てられたままになっている西用水路の復活に意欲を燃やし、同四十三年に完成をみるにいたったのである。