福富堰と妹尾郷用水

 下四か郷分水所の吐樋から送られた妹尾郷分の用水は、中撫川字福富堰で堰き止められ、芝一の樋から妹尾郷用水路に取り入れられる。
 福富堰は、昭和二十七年に吉備上水道用水の取水を兼ねてコンクリート堰に改修された。
 それ以前は、妹尾郷村々が毎年人夫を出して、足守川の中州を利用して土俵堰を構築していた。
 福富堰と芝一の樋の管理者は、岡山市合併前には福田村長がこれに当たっている。
 妹尾郷用水は、芝一の樋から福富・定杭地区の灌漑のために設けられている法六田樋・柳樋を経て、大内田の北で六間川を底樋で抜けて妹尾崎へ向かっている。
 法六田樋・柳樋は、妹尾郷用水路と足守川西堤防との間にある水田の灌漑のために設けられたものである。この区域の水田は、昔は妹尾郷用水掛りではなく、上流の西一郷半用水から分岐した半郷用水掛りであったので、妹尾郷用水路の箱樋で通して灌漑していた。しかし、水の掛りが悪いので箱樋を廃止し、半郷用水の一部を妹尾郷用水路へ
分水して法六田樋・柳樋からの灌漑を認められたのである。
 こうして撫川郷分の田地の一部が妹尾郷用水水掛りとなったので、妹尾郷用水の上流を芝一の樋用水と呼んでいる。

第59写真 妹尾郷用水路立石分水所

 妹尾郷用水は、妹尾崎から新川(東用水)を底樋で通過して高尾の北東にあたる字立石で妹尾用水を分岐し、一の口では北大福用水を分岐している。
 立石分水所では、立石によって両用水の分水量を調整していたと伝えられるが、現在はその立石もなくなっている。字立石という名は分水所の立石からきている。
 妹尾用水路は、現在では十二か郷用水の幹線水路となっている。その余水・悪水は妹尾と東畦の境界にある四ツ樋から興除地区へ送られている。
 しかし、もとの幹線水路は、立石から東へ分かれた大福用水路の中流にあたる「一の口」までであった。一の口から北大福用水路は東へ迂回している。
 大福新田開発以前は、一の口が十二か郷用水幹線水路の最末端であり、吐樋を設け児島湾に排水していたと伝えられている。
 大福用水は、福田村役場の付近で古新田用水を分岐しているが、取水は大福が優先であった。
 古新田は慶長十七年(1612)にはすでに十二か郷用水の水利権を得ていたが、実際の古新田開発が大福より遅れたため、大福の水利権確立の方が早くなっている。そのため古新田は余水・悪水しか取水する権利を認められなかったらしい。このような事情から古新田の用水路は、その幅を大きく取り貯水池を兼ねたものとなっている。
 福田・妹尾地区の水路では、興除地区との境にある四ツ樋・古新田から足守川へ排水する金谷樋を除いて樋は設けられていない。水田は全べて掻田であって、かつては足踏み水車が広く利用されていた。
 福田地区と興除地区との境界には、外野の吐樋・大福の大角樋門・妹尾地区側に東畦の吐樋「四ツ樋」がある。
 これらの樋板を上げて興除地区へ給水する時には、妹尾・福田・興除の全用水議員が立会いのうえ時間を決めて通水した。