下四か郷分水所
庄村日畑字西山に設けられているのが下四か郷分水所である。ここは現在コンクリート堰に改修されている。(昭和二十七年)。それまでは昔ながらの慣行に従って堰が築造されていた。
足守川の中央部にある州を利用して土俵堰を設け、三か所の樋門によって、川東一郷半及び川西一郷半。そして下流へ一郷分(妹尾郷分)の用水を分水していた。
東一郷分というのは、庭瀬郷と撫川郷の半分を意味し、西一郷半とは、庄郷(天領で倉敷代官所が支配していた)と撫川郷の残り半分であった。撫川郷は足守川をはさんで東西にひろがっていたのである。
嘉永七年(1854)頃には、湛井の初堰の二、三日後に庭瀬郷・撫川郷・庄郷から人足各百人ずつを出して千俵の土俵を使って下郷堰場の工事を行っていた。なお、ここでは妹尾郷の人足を免除する習慣があったようである。堰の高さは、土俵四俵を重ねた高さであったというから四〜五尺(130センチメートル〜160センチメートル)位であったろうと思われる。
土俵の築造にあたっては、樋守が水の深さを見はからって、庭瀬・撫川・庄各郷の担当すべき間数を決めて目じるしの枠を立て、各地域の人足がいっせいに作業にとりかかっていた。
樋守とは、各分水所に配置されている、樋門の管理と配水の任に当っている者であり、惣代出役や村人の指揮を受けていた。
いちばん東寄りの堰場を庭瀬郷、中央を撫川郷、妹尾郷吐樋寄りの西がわを庄郷が担当して築いていた。このような三か郷立会いによる土俵堰の築造は、明治中頃まで続いたが、それ以後は付近の農民に請負わせることになった。
この四か郷分水所は「七井手」とも呼ばれていた。普通の年で、用水期間中に七回も作り直さなければならない位、たびたび洪水に見舞われていて堰が切れていたからである。このために、築堤請負料は当時の金で年間百円位であった。
嘉永七年の記録によると、東一郷半用水樋は内法の高さ三尺二寸五分、幅三尺七寸五分、西一郷半用水樋は高さ三尺一寸、幅四尺二寸、そして妹尾郷吐樋は高さ三尺二寸、幅五尺であった。また妹尾郷吐樋と並んで、出水の際の配水のために内法三尺二寸、幅二尺五寸の吐樋一門が別に設けられていた。
堰の上手には川の中央部に州があった。この州の中ほどが東西に掘り抜かれていたが、これは東一郷半と西一郷半の両樋門前の水位をそろえて、取水料を平等にしようとするものであった。
妹尾郷吐樋の樋守は、嘉永七年には日畑村の源右衛門が勤めている。樋守には下四か郷から、給米として四石が支給されていた。彼は西一郷半の樋守も兼ねて樋の管理を行い、土俵堰の築造や、瀬掘りと称する樋前の浚渫作業の指揮にも当っていた。西一郷半用水掛りの村々からは、別に源右衛門に対して瀬掘料として銀札百二十匁を支払っている。
下四か郷分水所では、土俵堰の構築に先立って、妹尾郷吐樋と西一郷半圦樋とを兼務していた樋守の指図により、四か郷から人夫を出して、それぞれの区域に分かれて堰内の瀬掘り(浚渫)を毎年行う慣行であった。
なお、樋守は江戸時代には、それぞれ関係村々の庄屋・大庄屋の監督の下でその任務に当っていた。
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第58図 下四か郷分水所之図及び堰内瀬掘り分堰区分 |
昭和四十二年当時の東一郷半用水堰の管理者は吉備町長、西一郷半用水樋は庄村長、妹尾郷吐樋は福田村村長であった。これら町村長の管理の下で、それぞれの樋守が仕事に当っていた。
西一郷半用水は、下四か郷分水所から日畑字瀬口に至って撫川半郷分の半郷用水を分岐して、さらに庄郷一郷分の用水は天神掘から西尾のダザア樋まで流れて下庄・上東・山地の三用水を分岐する。
これらの各用水の余水や悪水は、下庄本田川樋・山道樋・定満樋・定満西樋・栗坂前樋・中坪樋・西栗坂樋等の吐樋によって六間川へ放流される。六間川の水は、妹尾崎関戸の泉水樋門から東用水として興除地区へ送られる。
東用水の泉水樋門・小鳥水門(汗入樋)及び六間川の関戸水門は、ともに下庄の元庄屋平松氏の管理化にあって、それぞれの樋守により水板の操作が行なわれていた。
西一郷半用水では、井堰が築造されて取水が始まると、最初の一日を「掛け流し」と称し、全ての樋を上げて末流まで流し、翌日から番水が行われるならわしであった。